HBM宣言
(HBM: Human-Based Medicine、人間の人間に拠る人間のための医療)
〜EBMの歴史的意義とHBM時代の夜明け〜

8. HBMの実際

 以下、HBMの実際を、順を追って説明したい。なお、以下の説明では、主に患者さんと医者との関係を中心に述べているが、医療というのは、患者さんと医者との間だけにあるものではなく、患者さんのご家族、知人、医者以外の医療スタッフなど、患者さんをめぐる多くの人々の複雑な人間関係の中で存在するものであり、そのすべての人間関係の中で、以下のことが実現されるのが理想である。

(1)治療目標の共有
 複数の人間が何かに取り組もうとするとき、まずは、目標を確認するのが普通だろう。目標を設定し、共通の目標に向かって、力を合わせて進むからこそ、成果が得られるのである。しかし、日本では、患者さんと医者との間で、治療目標を確認し合うということはあまりない。かといって、暗黙の了解で事がうまく運んでいるというのでもない。両者は異なる目標を思い描いているか、あるいは、目標について考えることもなく、ただ流されるままに医療に取り組んでいるのである。たとえば、私のところにセカンドオピニオンを求めてやってきた方に、治療目標を尋ねてみても、患者さんもわからないし、多くの場合、主治医からも明確な答えは返ってこない。「病気があれば治療する」というのが医者がたたき込まれてきた教えであり、治療目標に思いを巡らすこともなく、ただ、条件反射的に治療を行っている。患者さんの方は、「医者は自分のためを思って最高の医療をしてくれている」と信じて、黙って医者にすべてを任せてしまう。こうして、目標なき医療が行われ、何のためにもならないまま、不幸、絶望、不安が生み出されていくのである。
 両者の目標が明らかに違っている場合もある。


・患者さんは病気や治療の苦しみを味わいたくないと思っているのに、医者は、病気を小さくすることだけを考えて、次々とつらい治療を重ねていく
・医者は「手遅れで治療法はない」と言い放ち、見捨てられた患者さんは病気をなくすためにありとあらゆる代替療法に手を出していく


といった例は、今の医療現場でよく見かける。治療目標が共有できなければ、患者さんと医者は交わす言葉を失い、両者の壁は高くなり、わかりあうことはけっしてない。
 どんな小さな企画会議でも、企画書が用意され、目標が掲げられる。がん医療の現場で、治療方針を決める話し合いというのは、一人の人間の人生、生命、生活そのものに関わる重大な企画会議である。治療目標もなく、形式的に言葉を交わすのみで、治療計画が決められていくというのは、異常ではないだろうか。新しい時代に、このような医療はあってはならない。ある程度診断が確定したとき、まずすべきは、治療目標についての話し合いである。患者さんは、病気、医療、人生、死などについての自分の考え方を述べ、医者は、患者さんの病態や一般的な医学知識についてわかりやすく説明し、その上で、両者の率直な話し合いで、共通の治療目標を設定する。ここから、患者—医師関係が始まり、両者は、力を合わせて、治療目標へと進んでいくのである。
 根治、腫瘍縮小、再発予防、延命、症状緩和、QOLの向上、日常生活のサポート、早期退院、旅行などのイベントの実現・・・。いろいろな目標がありえるし、単一の目標に絞る必要もない。患者さんと医者の間にズレがないということが最も重要である。
 がんで初期治療後、再発をきたした場合、あるいは、診断時にすでに遠隔転移があるような場合、基本的に根治は望めない。このような中で、治療目標の説明もないまま、ひたすら抗がん剤を投与され、副作用に苦しんでいる人がいる。私は、そういう方からセカンドオピニオンを求められることがよくあるが、そんなとき、私は、「腫瘍とうまく長くつきあう」ことを治療目標として提案する。腫瘍をなくすことはできないけれども、それが悪さをしないように、症状のない時間をできるだけ長く過ごせるように、力を合わせて取り組んでいきましょう、という言い方をする。「腫瘍をなくすことはできない」ということを初めて知る方にはショックが大きいだろうが、「腫瘍をなくす」という実現しえない目標に向かってつらい治療を重ね、肉体の限界に至って、目標が達成できないことを知る、という絶望感に比べれば、希望のある考え方だと思う。一つの人生そのものが関わってくることであるから、わかりあえるまで、患者さんも私も精魂さらけだして語り合うことになる。「腫瘍とうまく長くつきあう」と一口に言っても、「うまく」と「長く」の重み付けには幅があり、患者さんごとにそのバランスは違ってくる。どのようなバランスで両者を追求するのがよいのか、場面ごとに患者さんとの話し合いを重ねて確認していく必要がある。

 「患者よがんと闘うな」と言い、病院には近づかない方がいいと主張する近藤誠氏21)や、「がん治療はギャンブルだ」と言い、症状を和らげることよりも腫瘍を小さくすることを目指し、次々と抗がん剤を変えて闘っていくべきだと主張する平岩正樹氏22)のように、世の中には様々な考えを主張する医師がいる。私はどちらの考え方にも賛同はしないが、治療目標を曖昧にしたまま治療を続けている医師に比べれば、ある意味、信頼できるやり方かもしれない。彼らの考え方を十分に知った上で、彼らと同じ目標を持って、納得して医療を受けるのであれば、そういう選択もあっていいと思う。
 ただし、「闘う」「うまく長くつきあう」「闘わない」というのは、本来医者が決めるべきものではない。医者は、公平で正確な情報提供に努めるべきであり、個人的な意見を述べることはあっても、それを患者さんに押し付けることはあってはならない。正確な情報を得た上で患者さんが判断したことは、最大限尊重されるべきであり、医者は、それに柔軟に対応するのが原則である。
 近藤氏や平岩氏のような、ある意味過激とも言える意見が、マスコミの注目を集める背景には、これまでに、彼らのようにはっきりと治療目標を提示した医者がいなかったという現実がある。彼らが患者さんと医療界に与えた影響は計り知れないが、マスコミが、治療目標の共有という大事な点に触れることなく、ただ彼らの意見を受け売りしているのであれば、医療の根本的な問題の解決にはならない。選択肢が増えても、医者が自分の考えを患者さんに押し付けるパターナリズムを抜け出ることはないからである。確かに、彼らの言説はわかりやすく、聞こえはいいが、そのイメージだけを垂れ流すのでは公平さを欠いている。大切なのは、患者さん自身が、自分にとって本当に必要なものを見据えて、治療目標と治療方針を考えることであり、医者やマスコミは、それを援助するのが役目である。
 患者さんは、あふれる情報の中で、自分の生き方を決めなければならない。イメージに流されて安易に医者の考えに従ってしまうのではなく、主治医と話し合いを重ね、時にはセカンドオピニオンという形で主治医以外の医者の意見も聞いて、納得できる治療目標を設定する必要がある。それが医療の第一歩である。

(2) エビデンスの共有
 治療目標を共有したあとにすべきは、エビデンスの共有である。医者は、これまでのエビデンスに基づいて確立している標準的な治療(現時点で最も優れていると広く認められている治療)を説明し、また、新しい臨床試験から得られた最先端のエビデンスについても説明して、治療方針の選択のために重要と思われる最低限の情報を患者さんと共有する。すでに述べている通り、エビデンスというのは医療における共通言語であり、患者さんと医者とが対等に語り合うために、なくてはならない道具である。
 しかし、これもすでに述べている通り、同じエビデンスであっても、重視するエンドポイントによっては、解釈が異なることがある。エビデンスを有効に活用するためには、治療目標の共有が前提としてなければいけないのである。治療目標がしっかり決まっていれば、重視すべきエンドポイントはおのずと決まってくる。逆に、患者さんと医者とで治療目標が食い違っていれば、EBMは空回りするだけである。エビデンスが共通言語とすれば、重視するエンドポイントの違いは、言葉遣いの違いといったところであろうか。同じ言語を使っていたとしても、言葉遣いが違えば、会話はかみ合わず、意思疎通は困難となる。
 「腫瘍とうまく長くつきあう」というのは、QALYsやQ-TWiSTを意識したものであるが、まだ、それをエンドポイントとする臨床試験はほとんどないので、生存率や生存期間というプライマリーエンドポイントについての結果を読み取りつつ、セカンダリーエンドポイントという形で設定されていることの多い副作用の大きさやQOLについての結果もあわせて読み取り、患者さんとともにそのエビデンスを吟味する。再発率を下げることがわかっているが、その効果はわずかであり、副作用はかなり大きい、という治療法があったとすれば、再発率を下げる効果と、副作用について、信頼度の高いエビデンスを提示して、患者さんにその治療を受けるかどうかを判断してもらうことになる。
 がんと闘わない近藤誠氏も、がんと闘い抜く平岩正樹氏も、自分の考えを説明する時に、EBMという言葉を用いている。二人とも、EBMという言葉をいち早く一般向けの本で紹介しており、その概念を広めた功績は大きいのだが、同じ概念で正反対の考え方が導かれているという事実は、EBMの危うさを体現しているように思う。
 近藤氏は、「治療や検査に伴う苦しみを経験しないこと」を目標とし、平岩氏は、「がんが小さくなること」を目標としているため、エビデンスの解釈も異なっているのだが、その目標自体はエビデンスから導かれるわけではないのである。目標設定は、あくまでも、人間の幸福に照らして行われるべきであり、EBMはそこまで規定してはいない。

 治療目標を明確にした上でエビデンスの知識を共有すれば、治療目標を達成できる可能性がもっとも高い治療が何なのかが見えてくる。ただし、エビデンスが100%の答えを出してくれるという場合はむしろ稀であり、時には推測や経験も交えて、納得できるまで両者が話し合う必要がある。患者さんは、すっきりしない点があれば、医師にその根拠を明示してもらうよう要求するべきであり、医者は、根拠のあるなしを明確にしながら話を進めるべきである。また、根拠のある標準治療であっても、治療目標の選択によっては、それを選ばないということもありえる。医者は標準治療だからといってその治療を押しつけることはできないし、患者さんがそれを選択しなかったからといって、患者—医師関係を悪化させるようなことはあってはならない。大切なのは、最先端の公平で正確なエビデンスを共有した上で、納得した治療方針を選択することである。納得できる方針にたどりつくためには、複数の医師の意見を聞くこと(セカンドオピニオン)も考慮すべきだろう。

(3) 人間としての語り合い
 治療目標とエビデンスを共有できれば、患者さんと医者との情報の格差は小さくなる。主治医からエビデンスについての説明がなかったとしても、出版物やインターネットを通じて、最先端の情報を得ることが可能であり、かつてのような情報の非対称性は、少しずつではあるが、解消する方向へ向かっている。同じ情報を共有し、同じ言葉遣いで同じ言語を操れるのであれば、基本的に、両者は対等の立場に立てる。人間関係において、あまりにも当然のことであるが、患者—医師関係においては、その当たり前のことが実現していなかった。
 もちろん、情報の非対称性が小さくなったとはいえ、医学一般の知識量や経験は、医者の方が多く持っている。また、巷に雑多にあふれる情報から、良質のエビデンスを見分けるという点についても、医者の方が優れているだろう。そこまでも対等になるということを要求しているわけではない。わからないことがあれば、わかるまで医者に質問すればよい。これもまた人間関係においてはごく自然なことである。
 ミクロやマクロの医学知識は、そのトレーニングを受けてきた医者に頼ればいいわけだが、逆に、等身大の人間についての情報は、医者よりも患者さん自身の方が多く持っている。人間としての経験、生きざま、考え方について、医者は、患者さんの話に耳を傾ける必要がある。人生経験豊かな患者さんの前で、ミクロやマクロの特殊な知識があるというだけで、若い医者が偉そうな態度を取るというのは、あまりに傲慢である。医学情報の非対称性とは逆の方向で、人間性の非対称性が壁となっていることに医者は気付かなければいけない。
 両者の違いを認識した上で、お互いを尊重しあい、人間として対等の立場で向き合うのが、人間関係の理想である。医療もまた人間関係であり、患者さんと医者の関係もかくあるべきである。情報量、人間性において両者に差があるのは当然であり、それを理由に語り合いが妨げられるようなことはあってはならない。患者さんも医者も、持っている情報を出し合った上で、治療目標のために何をすべきなのか、エビデンスを参考にしながら、真剣に考え、語り合う必要がある。エビデンスに基づく医療がEBMであるのに対して、人間としての語り合いに基づく医療をHBMと私は呼ぶ。

(4) 人間の幸福へ
 改めて、HBM「人間の人間に拠る人間のための医療」を定義してみたい。
・ HBMとは、人間を中心とする医療である。
・ HBMとは、人間としての語り合い、人間関係、人間性に基づく医療である。
・ HBMとは、人間の幸福を目指す医療である。

 何も特殊なことは言っていないつもりである。「人間」というのは、抽象的な存在ではなく、他ならぬ「あなた」や「わたし」のことである。きれいごとを言っているわけではなく、どろどろとした人間性や人間関係も踏まえた上で、あるがままの人間と対峙しようということである。
 HBMとは、現在の非人間的医療に対する一つの問題提起であり、「あなた」が医療と向き合う時の心構えを提案するものである。実際にどう向き合うかは、「あなた」が考えるべきことであり、HBMはそこまで規定はしない。
 すべての人が、それぞれの幸福を追求してほしい、というのが私のささやかな願いである。医療とは、それをサポートするためにある。
 いつしか、病院は、不幸を象徴する場所に成り下がってしまった。人生や日常生活において重要な位置を占める空間でありながら、不幸の色で染められてしまっているというのは、あまりにも悲しいことではないか。私は、病院を幸福で満たしたい。人々が、医療によって、しみじみと幸せを感じられるような時代が来ることを願ってやまない。