EBMは画期的な方法論であるが、恣意的な解釈が可能な側面があり、誤った使い方をすれば、患者さんの利益に逆行する危険性がある。患者さんの利益を反映させるための指標として、「QOLを加味した生存期間」の可能性について考察したが、それが客観的な指標として確立するためにはまだまだ乗り越えなければならない壁があるし、客観性を獲得したとしても、客観的であるがゆえの限界がある。
何度も言うとおり、私の考える医療の目標は、「人間の幸福」である。究極のエンドポイントは、「QOLを加味した生存期間」でもなく、「人間の幸福」である。しかし、「人間の幸福」となると、もはや客観的な評価は不可能である。幸福の形態は一人一人の人間で異なるものであり、どろどろとした人間性、人間関係が深く関わっている。客観性が求められるEBMでは、そこまで言及することはできない。そこで登場するのがHBM「人間の人間に拠る人間のための医療」である。
EBMが「最大多数の最大幸福」を目指すための方法論だとすれば、HBMは、「一人一人の人間の、その人なりの幸福」を目指すものである。EBMでの「幸福」は功利主義的で、客観評価可能なレベルのものであるが、HBMの目指すのは一人一人がしみじみと実感するレベルでの「幸福」である。
どのようなエンドポイントを設定しようとも、臨床試験で得られる結果は、多数を対象にしたときの平均である。平均値の高い治療を全員に行えば、全体として恩恵を受ける人が多くなり、それは社会利益にもなる、というのがEBMの出発点であるが、平均値の高い治療が一人の人間を幸せにするかどうかは、別次元の話である。
もちろん、EBMを否定するつもりはない。エビデンスは、一人一人の幸福を考える上でも、重要な情報である。前にも述べたとおり、エビデンスとは、患者さんと医者との壁をなくす「共通言語」であり、これからの医療には欠かせないツールである。共通言語を獲得した上で、何を目指すかというところがHBMなのである。共通言語を持つことなく、患者さんと医者がそれぞれの主観で医療に関わってきたのが、これまでの前近代的な医療であり、EBMによって客観的な共通言語が医療に持ち込まれたことにより、ようやく近代化がなされたのだと言える。そして、客観的な共通言語を用いて主観的な「幸福」を語ることができるようになれば、ポストモダンの時代を迎えることになる。HBMとは、「ひとりよがりの主観」ではなく、EBMを乗り越えた上で、初めて確立される「客観に裏打ちされた主観」である。
QOLという概念は、生命の量を重視する延命至上主義医療へのアンチテーゼとして登場した。量から質へ、客観から主観への流れである。一方で、EBMの文脈でQOLが語られるときは、主観的として切り捨てられてきた要素を、客観的に評価しよう、ということが言われる。主観から客観への流れである。QOLをめぐっては、そういう二つの流れが入り乱れている。私は、その二つの流れを統合するのがHBMであると考えている。客観から主観への流れは、「ひとりよがりの主観」への逆戻りではなく、近代科学を超えた新しい時代への夜明けを意味し、主観から客観への流れは、「客観に裏打ちされた主観」への発展のステップとして捉えられる。
客観を追求する近代科学の方法論で発展してきた医学は、生命の量を増やすという一定の成果をもたらしたが、人間関係としての医療では、前近代的な状態が続いてきたといえる。QOL、EBMという概念の登場によって、ようやく、近代化の道を辿り始めた。そして、その行き着く先にはHBMがある。「ひとりよがりの主観」(前近代)→「客観」(近代)→「客観に裏打ちされた主観」(ポストモダン=HBM)という流れである。
真のEBMとは、(1)「best research evidence(信頼度の高いエビデンス)」、(2)「clinical
expertise(医師の専門的知識・技術)」、(3)「patient
value(患者さんの価値観)」の3つが統合された医療と定義される19)。客観的なエビデンスだけでなく、患者さんの主観的な価値観や好みも意思決定に反映されるわけで、真のEBMとは、HBMとも重なる。上で論じたEBMは、「エビデンスだけに基づく医療」のことであり、EBMの誤った解釈であるが、一般には、このように受け止められている場合が多いようである(私にも誤解があり、このような論じ方になってしまった)。HBMという新しい言葉を持ち出すのもいいが、真のEBMを広めることの方が重要なのではないか、という指摘をいただいたこともある。真のEBMのあり方については、EBMジャーナル誌上で論じている20)。
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