エビデンスの基となる臨床試験では、試験開始前に「エンドポイント」というものが設定される。エンドポイントとは、臨床試験の結果として得られるデータ群のうち、治療の意義を判断するための指標である。がんの治療で言えば、「奏効率(Response
Rate: ある程度以上の腫瘍縮小効果がみられる割合)」「生存率(Overall Survival)」「無病生存率(Disease-Free
Survival)」「生存期間(Survival Time)」「QOL(Quality Of Life:
生活の質)」などがエンドポイントとなりうる。プライマリーエンドポイント(治療の優劣を判断するために設定される最も重要なエンドポイント)として何を設定するか、ということで臨床試験の意味が違ってくるし、どのエンドポイントに注目するかということで、結論は違ったものとなりうる。
「目の前の人間がどのような利益を受けるのか」というところからEBMの目的設定が行われるわけだが、「人間の利益」の解釈は、ミクロからマクロまで幅がある。「奏効率(腫瘍縮小効果)」というのは、バイオメディカル・モデルの影響を受けてミクロに傾いたエンドポイントであり、「生存率」「無病生存率」というのは、エコロジカル・モデルの影響を受けてマクロに傾いたエンドポイントである、という見方もできる。
<奏効率>
「奏効率」というのは、「生存期間」や「QOL」に比べれば、手っ取り早く、客観的に評価することが可能な指標である。レントゲン写真、CT、MRIなどの画像を見て、治療前後の腫瘍の大きさを測れば済むからである。2次元画像において、腫瘍の最長径または面積が一定以上縮小していれば「効果あり」とされ、「効果あり」とされる患者さんの数が多ければ、すぐれた治療ということになる。しかし、実のところ、「奏効率の高い治療を行えば生存期間が長くなる」といえるだけの確たる証拠はなく、腫瘍縮小を目的に治療を行っても、延命につながるとは限らない。さらに問題なのは、患者さんの自覚症状が悪化していても、治療の副作用で悶え苦しんでいても、画像で腫瘍が小さくなっていれば、「効果あり」とされてしまうことである。「等身大の人間」ではなく、ミクロレベルの細胞や分子ばかりを見てきた医者たちは、苦しむ患者さんを見つめることなく、画像だけを見て、ミクロレベルの治療効果に一喜一憂している。評価が簡単という理由で「奏効率」が多用されているわけだが、「奏効率」だけで評価されたエビデンスを根拠にして医療を行うと、延命になるという確証もないまま、腫瘍を小さくするための治療が漫然と行われ、結果として患者さんのQOLを低下させてしまうのである。これが本当に「人間の利益」となっているのか、考え直す必要がある。
<腫瘍マーカー>
日本では、腫瘍の大きさ以上に、「腫瘍マーカー」と呼ばれる血液検査上の数値が重視される傾向がある。腫瘍マーカーは、画像検査よりも頻繁に検査が可能(月1回の検査が保険で認められている)で、客観的な数字として明確に示されるため、誰の目にもわかりやすい指標である。「腫瘍マーカーを下げるためにすぐに治療を開始しましょう」といった言葉が普通に使われているわけだが、「腫瘍マーカー」と「人間の幸福」との間の隔たりを考えたとき、腫瘍マーカーという数字を治療対象とする医療は、明らかに本質を見失っている。
人間の利益を直接に反映する指標を「真のエンドポイント」と呼び、真のエンドポイントを間接的に反映する指標を「代理エンドポイント」と呼ぶ。「生存期間」や「QOL」は真のエンドポイントであるが、「奏効率」は、「生存期間」の長さを反映しているかもしれないと期待されて設定された代理エンドポイントである。腫瘍マーカーは、腫瘍の容積と相関していると考えられており、腫瘍縮小効果(奏効率)の代理エンドポイントと言える。つまり、腫瘍マーカーは、「生存期間」という真のエンドポイントからみれば「代理の代理」にすぎず、しかも、その相関関係は不明確である。そんな指標が治療目標となり治療内容を左右してしまうというのは、恐ろしいことではないだろうか。
<生存率・無病生存率>
「生存率」とは、臨床試験開始からある期間(5年で評価することが多い)経ったときに生存している患者さんの割合であり、「無病生存率」とは、そのときに病気の再発もしていない患者さんの割合である。「奏効率」に比べれば、より切実な指標であろう。しかし、患者さんの中には、自分の命を確率で語られることに違和感を覚える人が多いようである。「あなたと同じ病態の人が100人いて、こういう治療をしたら、5年後に再発したのは○○人でした」ということを、「あなたの病気が5年後に再発する確率は○○%です」と言い換えるわけであるが、患者さん側からすれば、「再発するかどうかは、私にとっては0%か100%でしかありえない」という思いがある。医者側としては、たくさんの患者さんを、集団として見てしまう傾向があるわけだが、診察室で患者さんと向き合う時には、かけがえのない一人の人間への視点を取り戻さなければいけない。マクロの視点から得られたデータは、重要な参考資料ではあるが、「一人の人間の利益」までは言及しえないという限界がある。
<生存期間>
「奏効率」というミクロのエンドポイントや、「生存率」というマクロのエンドポイントに比べれば、「生存期間」は、「等身大の人間」に主眼をおいたエンドポイントと言える。病気を抱えた方にとって、「あとどれくらいの時間を生きられるのか」というのは、「○年後に生きている可能性は○○%」という数字と比べれば、より身に迫ってくる等身大のエンドポイントであろう。しかし、現実問題として、目の前の患者さんの余命は誰にもわからない。わかるのは、生存期間の中央値(100人の患者さんがいたとき、50人目の患者さんが亡くなるまでの期間。すなわち、生存率が50%となるまでの期間。臨床試験では、平均値ではなく中央値で評価がなされる)であり、これは、目の前の患者さんの余命を意味するものではない。生存期間の中間値が3年だったとしても、生存期間が数週間だった人から再発することなく数十年生存している人までがデータに含まれているのであり、単純に「あなたの余命は3年です」ということが言えるわけではない。結局のところ、数字として導かれる中間値や平均値というのは、統計学的な解析の結果にすぎず、等身大というよりは、マクロに傾いたエンドポイントであり、この点においては、「生存率」と本質的に大きな違いはない。「生存期間」を、等身大のエンドポイントとして説明したのには無理があるかもしれないが、一人の人間の幸福を考えるとき、生存率を上げることよりも、その人が長く生きることを目指す方が自然である、という意味において、「生存率」と「生存期間」を別個に考えてみた。実際の臨床試験では、「生存率」と「生存期間」を区別せず、「生存曲線」の解析で治療の優劣が評価されることが多い。
<QOL>
「QOL」は、自覚症状、治療による副作用、身体機能、精神状態、さらには、社会生活機能、社会的地位、実存性などを評価するもので、患者さんの日常生活や生き様に直結する指標であるが、主観的な要素が強く、客観的な評価に向かないという難点がある。評価が難しいのでプライマリーエンドポイントとしては採用されにくく、医者側にも、それを重視しようとする姿勢はあまりない。世界各国で、客観的な評価を可能にしようと、症状、身体機能、精神状態を点数化する試みがなされているが、まだ、臨床現場に広く浸透するような尺度は現れていない。
<QOLを加味した生存期間>
「生存期間」「QOL」は、確かに評価に手間がかかるが、等身大の人間の利益を直接的に反映する「真のエンドポイント」であり、今後、より重視されるべきである。
臨床腫瘍学の世界でも、「奏効率」だけで評価することの危険性が指摘され、「奏効率」よりも「生存率」「生存期間」を重視すべきである、という公式見解が出されている。また、「QOL」をより積極的に評価しようという動きも各方面でみられ、実際に多くの臨床試験でQOLというエンドポイントが(副次的ではあるが)採用されている。
「生存期間=生命の量」と「QOL=生命の質」は、どちらも医療の目的として重要なものであるが、これまでは、「延命治療か緩和医療か?」というように、一方をとれば他方は犠牲になるかのような議論がされてきたし、それぞれが独立したエンドポイントとして、別々に語られることが多かった。しかし、生存期間だけで人間の幸福を決められるわけではなく、QOLだけでもまた同じである。これからは、両者をバランスよく目指すべきであり、そのためには、両者を一つにまとめた指標をエンドポイントとして採用するのがいいのではないか、という発想が生まれてくる。多くの人が納得できるそういう指標があれば、より「等身大の人間の利益」を反映できるはずである。
重視されるエンドポイントは「奏効率」から「生存率」「生存期間」へとシフトしてきたわけだが、次の章では、その先にある「QOLを加味した生存期間」の可能性を考察してみたい。
※ここではがん医療に限って話を進めたが、がん以外の疾患においても同様のことが言える。高血圧、高脂血症、糖尿病などにおいて、血圧、コレステロール、血糖値といった数値を下げることが証明された治療は無数にあるが、治療を行ってそれらの数値を下げること(ミクロレベルのエンドポイント、代理エンドポイント)が、患者さんの生存期間延長やQOL向上(等身大の人間のエンドポイント、真のエンドポイント)につながるのか、という証明は不十分である。それでもこの国では、コレステロールを下げる薬が、心疾患のリスクの低い人にも漫然と投与され、国内売り上げ第一位を記録しているし、医者は、高血圧などを放置して思いのままの生活を送っている人(ある意味ではQOLの高い生活といえる)を厳しく叱りつけ、薬を押しつけるのである。ちなみに、上記のコレステロール降下薬の宣伝には、堂々と「EBM」の言葉が踊っている。医者や製薬会社が、EBMを恣意的に用いていることを象徴する事例であろう。
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