HBM宣言
(HBM: Human-Based Medicine、人間の人間に拠る人間のための医療)
〜EBMの歴史的意義とHBM時代の夜明け〜

4. マクロへの視点、ミクロへの視点、人間への視点

 EBMとは、「集団医学」として捉えられることがある。EBM(=臨床疫学)の母体である公衆衛生学がそうであるように、人間を、個体としてではなく、集団として眺めているのである。一方、現代医学の花形である分子生物学は、人間を個体としてではなく、DNAやたんぱく質という分子の集合体として眺めている。社会(人間の集合体)というマクロへの視点も、分子というミクロへの視点も、現代医療では欠かすことができない。
 しかし、私が問題とするのは、この両極端の視点が、端へ端へと向かっていることである。集団医学では、個人の幸福よりも社会の利益の方が優先されるという風潮があるし、分子生物学では、人間性を断ち切って、より細かい物質の解析へと突き進んでいる。マクロとミクロの中間に、「人間」があり、マクロもミクロも、この「人間」に集約していくべきものであるが、一番大切な「人間」が忘れられる傾向がある。その問題意識から、私は、HBMを掲げるわけであるが、HBMへと論を進める前に、ミクロとマクロということに関連して、広井良典氏の論説4)5)について検討してみたい。広井氏は、「バイオメディカル・モデル」「エコロジカル・モデル」という二つのモデルを用いて医学史を俯瞰している。
 「バイオメディカル・モデル」とは、「病気には特定の原因が存在し、物理・科学的な因果関係の結果、特定の病気を引き起こす」という考えに基づくもので、因果関係を解明し、原因を除去するのが医学の役割ということになる。このモデルは、19世紀以降、医学の主流であり続け、20世紀後半の分子生物学隆盛の時代へと引き継がれている。
 一方、「エコロジカル・モデル」は、病気を個体と環境の相互作用の中でとらえるもので、「バイオメディカル・モデル」が主流となった後も、サブカルチャー的に、細々と語られてきたという。
 両モデルをキーワードでまとめると、以下のようになる。

「バイオメディカル・モデル」
ミクロ、実体、機械論、線形的、因果的、近代科学、分子生物学、要素還元主義

「エコロジカル・モデル」
マクロ、現象、システム、確率論的、統計的、疫学、公衆衛生、環境

 広井氏は、この対立する二つのモデルが、近年、接近しつつあることを指摘し、個体と環境の相互作用に言及する免疫学や、遺伝子に言及する進化論的医学の例を挙げる。
 両モデルの接近の中、病気へのアプローチにも変化がみられるようになった。生活習慣病や多くの慢性疾患においては、無数の環境要因、心理要因などが複雑に絡み合って病気が引き起こされており(複雑系)、単純なバイオメディカル・モデルだけでは解決が困難である。そんな複雑系の医学に対しては、エコロジカル・モデルの方法論を用いて、現象面からアプローチしていくことで、解決への道が開ける。広井氏は、EBMとは、両モデルの接近の一つの象徴であると述べる。
 「医療と病気の関わり」に関するこのような論考を受けて、私なりに論を進めてみたい。私の関心は、「医療の目的」「医療と人間の関わり」である。
 バイオメディカル・モデルの目的は、細胞・分子・遺伝子(ミクロ)のメカニズムを探求し、個体の病気を制御することであり、エコロジカル・モデルの目的は、人間の集団・環境(マクロ)へ介入し、病気全体を制御することである。この二つのアプローチで、病気と闘っているのが、今の医療の姿である。医療の目的が、「病気の治癒」にあるとするならば、そういうことでまとまりがつく。
 しかし、私の考える医療の目的は、「病気の治癒」ではなく、「人間の幸福」である。「病気を治すこと」と「人間を幸せにすること」がイコールであるならば、話は簡単であるが、実は、この二つは、イコールであるどころか、時には相反する関係にある。そんなとき、「人間」と「病気」はどちらが優先されるべきであろうか。
マクロへの視点とミクロへの視点が端へ端へと向かっているように思える、と私は書いた。病気と向き合うための方法論としては両視点が接近している、というのは、広井氏の言う通りであろうが、視線の向きが、中心にある「人間」にではなく、人間から離れた「病気」へと向かっているという点において、そういう危機感を抱くのである。ミクロへのアプローチでは、病気だけに関心が集中し、人間全体への視点はなおざりにされ、マクロへのアプローチでは、社会の利益だけに関心が集中し、一人一人のかけがえのない人間存在は軽視されている。
 前章で述べたとおり、EBMの本質の一つは、「人間」へのまなざしである。マクロとミクロの接点にEBMがあり、EBMの真髄に「人間」があるとすれば、EBMは、マクロとミクロの視点を、「等身大の人間」において統合させうる概念ということになる。しかしながら、現実はそのような方向へは進んでいない。EBMは、根拠として「人間」を掲げているものの、目的については、その方法論を用いる人の恣意的な設定を許容しており、「人間」への視線は、「等身大の人間」で焦点を結んでいるとは言い難い。