HBM宣言
(HBM: Human-Based Medicine、人間の人間に拠る人間のための医療)
〜EBMの歴史的意義とHBM時代の夜明け〜

3.EBMの本質

 「神」「権威」「教科書」「知識」「経験」「動物実験」「試験管実験」「分子生物学」といったものを根拠にしようとする発想の裏には、「絶対的真理の存在」という幻想がある。「医術が進歩すれば、あるいは、人間の体を解明していけば、普遍的な治療法へとたどり着く」という期待がある。患者さんの方も、医者が何を根拠に医療を行っているのか知らないのにもかかわらず、医療には、ゆるぎない根拠があると信じている。「お医者様は神様であり、何でも知っている。病院に行けば、どんな病気も治してくれる」という信仰がある。
 人類には、普遍性を追い求める本能があり、それが科学を発達させてきたということ、でも普遍性追求には限界があるということ、行き場を失った科学が新しい時代を拓くためには、あるがままの人間性を受け入れるべきだということ、そういったことは(かなり不完全な形であるが)以前論じた2)。人間をめぐる営みである医学においては、特にそれが当てはまる。まずは、「医療は絶対」という幻想を打ち破らなければいけない。そして、あるがままの(時にはどろどろとした)人間性をみつめ、そこから新しい医療のあり方を模索しなければいけない。
 では、新しい医療は何を根拠にすべきなのか?一つは、人間性そのものであり、もう一つは、人間性を包含した科学である。前者を、私はHuman-Based Medicine (HBM)と呼び、後者は、一般にEvidence-Based Medicine (EBM)と呼ばれる。ここでは、EBMの歴史的意義とその本質について論じる。

 EBMとは、「科学的根拠に基づく医療」などと訳される。疫学・統計学を臨床に応用する学問として発展してきた「臨床疫学」(clinical epidemiology) の考え方に、GuyattがEBMという言葉を当てはめたのが1991年3)。以後、このキャッチフレーズは広く医療界に浸透するようになった。
 疫学・統計学によって得られる医療と人間をめぐるデータの集合体が、エビデンスと呼ばれ、世界共通のルールで信頼度の順位が決められている。「複数のランダム化比較試験のメタ分析」「ランダム化比較試験」「非ランダム化比較試験」「症例対象研究などの記述的研究」の順に信頼度が高いとされ、その時点でもっとも信頼度の高いエビデンスに基づいて医療の内容を検討するというのが、EBMの立場である。「医者の個人的な知識・経験」は、最も信頼度の低いエビデンスであり、どんなに権威のある医者の意見であっても、臨床試験の裏付けがない限り、医療の根拠とするべきではないとされる

(筆者注:医者の専門知識や技術の重要性を否定しているわけではない。EBMは、(1)「best research evidence(信頼度の高いエビデンス)」、(2)「clinical expertise(医師の専門的知識・技術)」、(3)「patient value(患者さんの価値観)」の3つが統合された医療と定義されており、エビデンスを個々の患者さんに適応する段階において、医者の知識や経験が必要とされる)。
 日本でも、最近になって、EBMが流行語のように広まってきたが、少なからず誤解があるようである。臨床よりも基礎研究が重視される日本の医療界では、普遍性追求の文脈でEBMが捉えられる傾向があり、エビデンスと聞いて、絶対的真理を手に入れたかのように考えてしまう人がいる。自分に都合の良いエビデンスだけを持ち出して、それを金科玉条として患者さんに押しつけるようなことがあれば、それは、EBMの精神と逆行する行為である。
 エビデンスが「科学的根拠」と訳されることが誤解の一因と思われるが、実際に即して訳すなら、「統計学的事実」とするべきであろう。エビデンスとは、絶対的な真理ではなく、相対的な事実である。EBMというのは、長い医学史の中で初めて相対的な指標を根拠として打ち出した、革命的な概念なのである。
 「Aという治療法とBという治療法を比べると、治療効果の点においては、Aの方が相対的に優れている」というのがエビデンスであり、それを積み重ねていくことで、今現在考え得る医療のうち、どれが最も患者さんの利益につながる可能性が高いのか、判断することができる。相対的な事実であるから、より信頼度の高い事実で置き換わる可能性があり、常に、最先端の情報から、患者さんの利益を考えていく必要がある。大切なのは、患者さんの利益であり、普遍的な医療ではない。普遍性という幻想を根拠に医療を行っても患者さんの幸福にはつながらない。
 EBMは、「還元主義の限界」を前提としているという点でも画期的である。試験管実験、動物実験、分子生物学などの基礎研究から導き出される「たった一つの答え」は、論文にもなりやすく、見栄えもするが、前述した通り、その結果が人間における現象に当てはめられる場合は稀である。還元主義的根拠をいくら積み上げても、医療と人間のよりよい関係を語ることはできない。「人間」に対してある医療を行うとき、「人間」は実際にどのような利益を受けるのか、どのような不利益を被るのか、そういうことを、「人間」を対象とした臨床試験で一つ一つ確認し、目の前の「人間」の最大限の利益につながる医療を考えていく、というのがEBMの姿である。
 これまでの医学は、空虚な「普遍性」に基づく医療であった。教科書に書いてあること、偉い教授の言うことが絶対的で、若い医者は、権威を獲得するために、そういう絶対的な知識と経験を蓄えようとしてきた。長年伝承されてきた慣習が重視され、若い医者は、従順にレールの上を進むことが要求された。ピラミッドの頂点には、究極の医師像があり、すべての医師がそれを目指していたのである。
 EBMは、そんな「究極の医師像」を否定する。エビデンスは、ピラミッドの頂点にあるのではなく、すべての人の手の届くところにある。今や、インターネットさえ使えれば、いつでもどこでも、あらゆるエビデンスを手に入れることができる。無数の論文が発表され、エビデンスが時々刻々変化し続ける中、インターネットに不慣れで、時間的余裕のない教授よりも、若い医者、学生、そして患者さんやそのご家族の方が、より新しい情報を持っているという現象が起こりつつある。EBMの時代にあっては、権威に基づくヒエラルキーは、意味をなさなくなってくるのである。
 患者-医師関係において、「パターナリズム」や「情報の非対称性」が問題とされているが、EBMは、これらの問題を解決する可能性も秘めている。権威に基づいて築かれていた不透明なピラミッドが崩壊し、エビデンスという明確な根拠がすべての人の前に示されるようになれば、すべての患者さんとすべての医者が、共通の情報を手にでき、共通のことばで、対等に語り合うことができるようになる。前に述べたとおり、「神」がすべての根拠であった時代を除き、これまでの医療の歴史では、「患者さんの信じるもの」と「医者の根拠とするもの」がかけ離れていて、それが多くの問題を引き起こしてきた。情報の非対称性という壁に区切られて、患者さん側と医者側が、それぞれの思惑で「医」を模索してきたのであるから、わかりあおうにも、交わすべき言葉が存在しなかったのである。EBMは、医療における共通言語をもたらすものであり、医療の構造を根本から変革しうる概念である。

以上述べたことから、私の考える「EBMの本質」をまとめると、以下のようになる。
(1) 「相対的」
医療に「絶対的な真理」が存在しないということを前提とし、相対的な指標を根拠としている。
(2) 「人間」
人間から離れた還元主義的根拠ではなく、人間を対象とした臨床試験を根拠とし、「目の前の人間がどのような利益を受けるのか」ということに主眼を置いている。
(3) 「共通言語」
患者さんと医者が対等に語り合う共通言語としての意味を持ち、情報の非対称性の解消につながる。