1994年東京大学五月祭 医学部M1企画
 

※大学3年、医学部に進学したばかりのときに、実行委員長としてこの企画に関わりました。養老孟司氏と中村桂子氏をお招きし、生命をめぐるディスカッションは、とても刺激的なものでした。

私は、この企画でさらに養老先生の魅力にとりつかれ、先生が退官されたあとも追っかけをし、日米学生会議の企画にもご協力いただきました。養老先生から教わった哲学は、今も私の思索の根底にあります。

以下、五月祭当日に配布した資料です。

 

  「21世紀の新しい生命観を探る」
DNA、脳、宇宙――21世紀は「生命」抜きには語れない……。
  1994年5月29日(日)

主催:五月祭医学部M1企画実行委員会

 

はじめに
 「なぜ花は咲くのか?」小学生のときだったか、理科の授業でこの疑問が取り上げられた。そして、答えはこうだった。「植物が花を咲かせるのは、おしべの花粉をめしべに受粉させるため、すなわち、種の存続のためである。」――当時のぼくは、これを聞いて、「科学と言うのは、花の咲く理由までも解明してしまうのか……」と、妙に感心したのを覚えている。しかし、今から思うとこれは実に夢のない話である。多くの人にとって、花は、この世界にいろどりを添えるために、あるいは、恋人たちの語らいを見守るために咲くものではないだろうか?確かに、科学的には「種の存続のため」というのは正しいのだろうが、ぼくらがそれぞれの心の中で抱いている花への想いというのはそれによって否定されるものではない。ぼくは、花の美しさはこの世界を明るくするためのものであると信じたいし、そう信じることは間違っていないと思っている。

 これは、科学が普遍性を求めるあまり日常感覚から遠く離れてしまっているという一例である。ぼくは、科学を否定するつもりはないし、むしろ、科学を学ぶ者としてその発展を望んでいる。ただ、科学が普遍性を追い求めるというのには限界があるのではないか、と思うのである。近年、「宇宙の誕生」「生命の誕生」「人類(の脳)の誕生」などの、長らく神秘としてしか捉えられなかったことが科学によって解明されつつあるが、はたしてこの世の中の出来事はすべて科学によって一つに決定できるものなのであろうか?完全な理論を追い求めていた物理学は、量子論やカオス理論の登場で、物事が一つに決定できるものではないことを知った。そして、生物学においても、ワトソン・クリックのDNA二重らせん構造発見以来生まれてきた「生命はDNAによって完全に決定される」という考え方に限界があることがわかってきたのである。
 
 普遍性の追求に限界があるとすれば、科学はこれから何を目指せばいいのだろうか?近年、生命科学者たちの間では、生命をミクロの方向に分析し、物質として生命現象をとらえようとするだけではなく、広い視野に立ち返って、生命が全体としてもつ意味を考え直そうとする動きが盛んに起こってきている。これは、これからの科学の方向性としてとても興味深いものだと思う。こういった動きにより、科学は科学者だけのものではなくなり、学際化の流れの中で、人文科学や社会科学との連携も深まっていくのではないかと思われる。生命科学は、科学の中で重要な役割を果たし、「生命」は、21世紀の地球社会において重要な役割を果たすのではないか……。そういった予測と期待を含めて、サブタイトルに、「21世紀は『生命』抜きには語れない」という言葉を入れたのである。
 
 この企画にお呼びしている養老孟司先生と中村桂子先生は、著作などを通じて生命や科学や人間などについて様々な視点から興味深い発言をされているので、今回の企画は、
「21世紀の新しい生命観」「21世紀の科学のあり方」さらには「21世紀の人間のあり方」を考える上でとても価値あるものになるのではないかと、企画者ながら楽しみにしている。ご来場いただいた皆さんにも、この企画を通じて自分なりの考えを抱いていただけたら幸いである。

M1 高野利実   

 
養老孟司(ようろう たけし)
 1937年鎌倉生まれ。1962年東京大学医学部卒業後、解剖学教室へ入り、1981年より、解剖学第二講座教授。斬新な見方で世の中の様々なことを語り、幅広い分野で活躍している。
 著書に、「ヒトの見方」(築摩書房)、「形を読む」(培風館)、「脳の中の過程」(哲学書房)、「からだの見方」(築摩書房)、「唯脳論」(青土社)、「涼しい脳味噌」(文藝春秋)、「カミとヒトの解剖学」(法蔵館)、「脳に映る現代」(毎日新聞社)、「解剖学教室へようこそ」(築摩書房)、「解剖の時間」(布施英利との共著、哲学書房)などがあり、対談集として、「中枢は末梢の奴隷」(朝日出版社)、「恐龍が飛んだ日」(哲学書房)、「脳という劇場(唯脳論……対話編)」(青土社)、「古武術の発見」(光文社)などがある。また、NHKスペシャル「驚異の小宇宙人体・ 脳と心」でキャスターをつとめるなど、TV出演も多い。
 
中村桂子(なかむら けいこ)
 1936年東京生まれ。東京大学理学部化学科卒業、同大学院生物化学科修了。国立予防衛生研究所、三菱化成生命研究所を経て、現在は同研究所名誉研究員および早稲田大学客員教授。1993年には大阪に「生命誌研究館」を設立、副館長をつとめる。「生命」を新時代のスーパーコンセプトとしてとらえ、生命科学の枠を超えた幅広い分野で活躍している。
 著書に、「生 スのストラテジー」(松原謙一との共著、岩波書店)、「生命科学と人間」(日本放送出版協会)、「女性のための生命科学」(中央公論社)、「生命誌の扉をひらく」(哲学書房)、「生命科学から生命誌へ」(小学館)、「自己創出する生命」(哲学書房、毎日出版文化賞受賞)、「あなたのなかのDNA」(ハヤカワ文庫)、訳書に、J.D.ワトソン「二重らせん」(講談社)、F.H.C.クリック「熱き探究の日々」(TBSブリタニカ)などがあり、分子生物学の定番教科書である「細胞の分子生物学」(教育社)の監修もつとめている。また、NHKスペシャル「驚異の小宇宙人体・ 脳と心」および「生命 40億年はるかな旅」(本日午後9時より第2回を放送)の諮問委員として番組づくりにもかかわっている。
  生命とは

養老孟司

 生命は私の使うことばではない。具体性がないからである。英語のライフなら、日常生活という意味を重ねて持っている。だから、具体的なイメージがある。でも、「生命」ということばには、それがないように、私には感じられる。
 生物は、まさに「物」だから、解剖学者としては、よくわかる。死んだ人が物だというのではない。物だとすれば、生きているうちから、人間は物体性を持つ。体重もあれば、障害物にもなるからである。
 生物を考えたり、死体を考えたりすることなら、私にもできる。生命はむずかしい。最近は「人工」生命というものがあるが、これなどは、生物が抽象化して、生命になって、そこからさらに生じてきたものであろう。それが悪いというわけではない。しかし、テレビの画面が「生命」になるというのは、いまひとつ、簡単には賛同できない面がある。
 実際の生物が前提になっているから、「人工」生命でいいのだが、そのうちその「実際の」がなくなりそうな気がする。いや、科学の世界ではすでにそうなっているかもしれない。すべては実験室の「生命」だ。その「すべて」が気になるのである。わざわざそう言えば、だれでも、それがすべてではない、と言うに違いない。でも、本音はどうだろうか。

生命とは

中村桂子

 生命とは、という問いへの答えはその人のものの見方、学問の世界でいえば専門分野に左右されることになる。物理学者は、生命の論理を探ろうとし、情報科学者は生命は情報であると割り切る。
 私の場合、『生命』とはなにかを知るため ノ、地球上に生存する(「する」だけではなく「した」も含めて)生きものたちの実態を知るところから出発しようと考えている。今のところ私たちは、生命を持つものを一種類しか知らない。この姿が生命の有り様の典型かどうかは分からないが、今は、私自身をも含めて地球上の生きものを知ること、生命一般よりもそれに関心を持っている。
 そのための有効な切り口を求めてゲノムという単位、歴史的視点、時間という因子の導入を試みたのが生命誌である。こうしてみると、分析、還元、客観を金科玉条にしてきた科学という知がどれほど特殊なものであったかが見えてくる。また、特殊であるだけにいかに有効であるかも。科学を踏まえながら特殊の中だけに入りこまない道が見えそうな気もする。
 たとえば、最近は複雑系という見方が新しく出され、生命体は複雑系の代表とされている。確かに脳などを見ていると複雑そのものに見える。しかし、でき上がっていく過程を追うと意外にそこには単純な姿が見えなくもないのだ。
 地球上の生きものの歴史から学びとれるものがなかなか面白いので、当面、これを私の生命観の基本にしていくつもりだ。




<「生命」をめぐって 〜生命科学者たちの言葉から〜>
 
J.D.ワトソン、F.H.C.クリック(DNAの二重らせん構造の発見者)
 われわれは、DNAの塩の構造を提案したいと思う。この構造は、生物学的にみてすこぶる興味をそそる斬新な特質を備えている。
(1953年『ネイチュア』に掲載された歴史的論文の冒頭)
……ワトソン『二重らせん』(中村桂子訳)より引用

J.モノー(1960年代に活躍した分子生物学者)
 科学の究極の野心が、宇宙に対する人間の関係を解くことにあるとすれば、生物学は科学において中心的な位置を占める。生物学は、「人間の本性」に迫るものであり、現代思想の形成に寄与するものである。
(1970年『偶然と必然』)
……中村桂子『自己創出する生命』より引用

R.ドーキンス(「利己的遺伝子」の提唱者)
 遺伝子は究極のところ、自分自身を増やそうとする行動のプログラムであり、生物は、そのプログラムを実現しようとするための乗り物にすぎない。
(1976年『利己的な遺伝子』)
……中原英臣ほか『利己的遺伝子とは何か』より引用

利根川進(1987年度ノーベル医学生理学賞受賞者)
 生物は無生物からできたものであり、物理学および化学の方法論で解明できるものである。要するに、生物は非常に複雑な機械にすぎないと思います。
(人間の精神現象も含めて、生命現象はすべて物質レベルで説明できるのかという質問に対して)そう思います。……今はわからないことが多いからそういう精神現象は神秘な生命現象だと思われているけれど、わかれば神秘でも何でもなくなるわけです。……ぼくは脳の中で起こっている現象を自然科学の方法論で研究することによって、人間の行動や精神活動を説明するのに有効な法則を導き出すことができると確信しています。
(立花隆、利根川進『精神と物質』)

I.アシモフ(SF作家、生化学者)
 一部の生物学者たちは、近頃の生物学および生化学の研究が、DNAに集中しすぎていることを嘆いている。彼らは、部品そのものの研究に熱心なあまり、有機構成の研究が忘れられていると考えている。私も、この考えがある程度正当だということを認めざるをえない。にもかかわらず、私は部品そのものを完全に知りつくすことなしには、有機構成を理解することもできないだろうという気がする。そして、DNA分子の性質が誰の眼にもはっきりと明らかにされたときこそ、今日における生命の神秘は、有機構成も何もかも含めて、きれいな整然とした体系をとるだろうという期待をもつのである。
(『空想自然科学入門』)

渡辺格(日本の分子生物学の草分け)
 長い間、物質世界と生命世界は別のものだと考えられてきた。今、私は物質世界のなかに生命世界が生まれたことを確信している。そう考えたとき、教育のなかで、生命をどこで取り上げるかが問題となってくる。物質世界の枠のなかに生命世界が成り立っているという前提を踏まえた上で、DNAから始まった生命科学が、今、どこに向かおうとしているのか正しく教える必要があるからだ。…………どんな生徒にも、大きな自然科学観のなかでのDNAをきちんと教えるべきなのだ。DNA時代というのはそれほど重要な意味をもっている。文明も含めて、すべての人類の未来を決定するといっても過言ではない。
(『なぜ、死ぬか』)

養老孟司
 自然科学とは、どういう方向に向かうのだろうか。世の中をにぎわすのは、いつでも技術に代表される科学である。しかし、科学にはもう一つの側面がある。それは物事の理解を深めることである。従来、文科系の学問がその役割の多くを担ってきた。それは、しだいに変化するであろう。理科と文科の境が消えなくてはならない。もともと一つであった学問は、社会的な分業もあって、むやみに分化してしまった。それはしかし、いずれ一つにならなくてはならないはずである。実際に多くの文科系の学問が自然科学の方法を取り入れつつあり、他方、自然科学の主題が、文科系の学問によって、論じられるようになってきている。生物学や医学では、特にその傾向が明瞭である。生物の中には、もともとヒトを含んでいるし、医学はヒトの理解なしには成り立たない。学問そのものを担っているのが、そもそもヒトである以上、すべての学問が、ある意味でヒトの理解に還元するのは、当然であろう。
(『脳に映る現代』)

 現代とは、要するに脳の時代である。情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味している。脳は、典型的な情報器官だからである。都会とは、要するに脳の産物である。あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり、脳の産物に他ならない。都会では、人工物以外のものを見かけることは困難である。そこでは自然、すなわち植物や地面ですら、人為的に、すなわち脳によって、配置される。われわれの遠い祖先は、自然の洞窟に住んでいた。まさしく「自然の中に」住んでいたわけだが、現代人はいわば脳の中に住む。
 伝統や文化、社会制度、言語もまた、脳の産物である。したがって、われわれはハード面でもソフト面でも、もはや脳の中にほとんど閉じ込められたといっていい。ヒトの歴史は、「自然の世界」に対する、「脳の世界」の浸潤の歴史だった。それをわれわれは進歩と呼んだのである。………………
(『唯脳論』)

中村桂子
 私たちの中には、常に統一的・普遍的なもの、変わらないものによって、多種多様で変化していく身のまわりのものを整理し理解したい、という欲求がある。科学はその欲求の現われとして普遍的なものを探し、それによって世界を記述することに成功した。特に物質については見事な成果を上げた。ところが、それが、日常生活で接する多種多様で日々変化しているものの理解につながったかというとそうではない。科学の基本には、普遍によって多様を知るという意図があったはずなのに、それが一つのディシプリンとして確立し、さらには制度化されていくうちに、普遍を記述することがその目的のようになってしまったのだ。科学的世界認識と日常のずれ、物質と生命および物と知覚の乖離、部分と全体の問題。これらはいずれも、これまでの科学が普遍の記述に終わり、それが現実社会の多様性とどのようにつながっているかはなおざりにされていたことをさしている。このような科学だけに依拠していても自然や生命は見えてこないのである。…………
 生命誌の「誌」は、歴史物語という意味をこめたものである。「生命」を基本に、多様な自然についての物語を紡ぎ出していく。そういう作業をしたい。これまでの科学は、一つの真理に向かって進み、その成果を時間を抜きにして発表するものであった。しかし今科学は変わりつつある。自らは系の外側にいて、論理、客観、普遍を旨として記述するという科学(エキソ科学)の時代は終わり、自分もその系の一員であるとして考えていく「エンド科学」とでも呼ぶべきものが生まれつつあるのだ。科学は誌に移行しつつあり、それは、「理性」から「生命」への(基本理念の)移行と平行しているように見える。
(『自己創出する生命』)

[目次へ]

トップに戻る