<企画目的>
(1)「科学」と「人間・社会」の間の壁を越え、誰もが「人間」として「科学」を考えられるようにする。
(2)「人間」に関する斬新な素材を提供することで、「人間」についてより深く考えるきっかけとする。
(3)社会に対して提言を行うことで、よりよい科学・人間・社会の関係の形成に貢献する。
(4)東北インテリジェントコスモス構想に貢献する。
<企画趣旨>
まず私たちは、科学の現状として、
(1)「科学者の科学」と「私たちの科学」の乖離
(2)「科学」と「人間・社会」の乖離
の二つを挙げ、この二つの乖離を解決するために「『人間』として『科学』を考える」ことが必要だと考えた。そして、「人間」として「科学」を議論する際の最も相応しいトピックとして、「人間をめぐる科学」を取り上げることにした。「人間」は私たちにとって最も身近な科学の対象であり、この科学の成果は、人間・社会に直接的に影響を与えるからである。具体的に、この企画で取り上げたのは、(1)人間のDNA、(2)人体(実物の標本・コンピュータ上の映像)である。
(1)人間のDNA
現在、ヒトのDNA情報を全て解読しようという「ヒトゲノムプロジェクト」が、国際協力の下、科学史上空前の規模で進められており、この計画が完成され、DNAの細かい働きが解明されていけば、医学分野などで人類に多大な貢献をすることが期待されている。しかし、このヒトゲノムプロジェクトや、遺伝子診断、遺伝子治療、遺伝子操作など「人間のDNAをめぐる科学」が倫理上の様々な問題をはらんでいるということも忘れてはならない。人間は個人のDNA情報をどう扱うべきなのか、どこまでDNAに手を加えてよいのか。今後、人間のDNAをめぐる話はますます日常的になっていくであろうが、それが他ならぬ人間自身をめぐる科学技術である以上、一部の人間に判断を任せるのではなく、私たち自身がこの問題を真剣に考えべきである。
(2)人体(実物の標本・コンピュータ上の映像)
「人間のDNA」は肉眼では見えないレベルでの話であり、身近な話として感じるのには限界がある。科学が別世界のものでなく、すべての人間にとって身近なものであるということを誰もが理解できるように、この企画では「人間のDNA」についての考察に加えて、「人体」を取り上げた。
この企画を一言で言うなら、「人間の人間による人間のための科学技術フォーラム」である。ここで「人間」というのは、社会上のあるあらゆる枠組みを取り去ったレベルでの私たちのことであり、「科学の主体者」「科学の対象」「科学の目的」の全てを包含した存在である。そのレベルでの「人間」として、「科学」と「社会」との共生を目指そうというのが当企画の最大の目的である。
そして同時に、「人間」が宇宙・地球・地球上の生態系といったより大きなものの中に存在する小さな生命体に過ぎないという事実に対しては、常に謙虚である必要があると私たちは考える。「人間の人間による人間のための科学技術フォーラム」は人間の傲慢さを \現するものではなく、地球環境・生態系の中にある「人間」としての視点も含まれている。人間についてより深く考えることで、人間とそれをとりまく環境との共生を目指すこと、それも当企画の一つの目的である。
<科学技術フォーラム企画の経緯>
日米学生会議は、日米関係や安全保障問題など社会科学的なトピックを扱う場というイメージが強いが、そのような中でこの「科学技術フォーラム」を企画するのは大いなる挑戦であった。「日米学生会議でなぜ科学技術なのか」「日米学生会議でなぜ『生命』なのか、『人間』なのか、『遺伝子』なのか、『人体』なのか、………」。数多くの壁を乗り越えて実現したこの企画の経緯を振り返ってみたい。
「科学技術フォーラム」の実施が決定されたのは、46回会議の最後に行われた新実行委員会議においてである。科学技術フォーラムが第47回日米学生会議の正式企画として取り入れられたのは、以下の理由による。
・科学技術は分科会で取り扱うよりもプログラムで扱うのに相応しいテーマである。
・学際化・ボーダレス化が進み、科学技術を自然科学的な視点だけから見ていればよい時代は終わった。
・仙台は「東北インテリジェントコスモス構想」の中心都市として、科学技術の発展に力を入れている。
まず私たちは、「『科学と人類』〜人類は科学といかなる関係を築いていくべきなのか〜」というテーマを掲げ、それとともに講師候補の選定と交渉を開始した。当初は、第47回日米学生会議の開催時期と同時期に広島で開催される「パグウォッシュ会議」と関連させた企画も考え、パグウォッシュ会議評議員の小沼通二慶応大学教授などとも交渉を行ったが、残念ながら実現には至らなかった。なお、このパグウォッシュ会議がノーベル平和賞を受賞したのはこの年の暮れのことであった。
私たちは、取り上げるトピックを、科学と人類の接点となる「生命」にしぼる方針を固め、全国の著名な方々との交渉にあたった。コンタクトをとらせていただいた順に、石田名香雄氏、養老孟司氏、多田富雄氏、村上陽一郎氏、ダリル・メイサー氏、松原謙一氏、榊佳之氏、中村桂子氏、エリック・ランダー氏(MIT教授)、ピョートル・スロニムスキー氏(フランス分子遺伝学センター教授)、加藤尚武氏、森岡正博氏、石井敏弘氏、田崎京二氏、吉田穣氏、沢田康次氏といった方々である。
養老孟司氏は、最初の面会のとき、3月末に東京大学総合研究資料館で、9月に国立科学博物館で人体プラスティネーションの展示を行うことを教えて下さり、その二つの展示の間であれば私たちの企画に標本を貸すことができる、という提案をして下さった。人体標本の一般公開は前例がなく、当初は私たちにも迷いがあったが、結局、このチャンスを利用させていただくことにした。そして、テーマを「生命」から「人間」に限定することも決めた。人体標本の展示は、実現までにさらに多くの壁が待ち受けていたが、貸し出し側の養老氏、吉田穣氏、仙台での受け入れのために奔走して下さった石井敏弘氏、田崎京二氏をはじめ数多くの方々のご尽力のおかげで、実現するに至った。
テーマを「人間」にしぼるとともに、「人体」とは別のトピックとして、「ヒトゲノムプロジェクト」を取り上げることも決まった。このプロジェクトを世界的にリードする榊佳之氏や、その倫理問題を研究されている加藤尚武氏、森岡正博氏などの方々から貴重なアドバイスをいただけたのは幸いであった。
ここに改めて、多大なるご協力を下さった皆様に心より感謝したいと思う。
<フォーラムの概要>
科学技術フォーラムは、北澤咲弥花、Malik Rashidの司会によって進められた。なお、言語は主として日本語を使用し、米国側参加者のために日本語から英語への同時通訳が行われた。
・企画説明
主催者を代表して実行委員の高野利実が企画の趣旨と目的を説明した。
・映像プレゼンテーション「人間をめぐる科学 〜DNAから人体まで〜」
NHK/NHKエンタープライズ21、(株)メタコーポレーション・ジャパンからの映像・技術の提供を得て、湧永裕子ら日米学生会議参加者が作成した約10分間の映像を会場で上映した。「DNA」から「人体」、「宇宙」までの様々なレベルの映像によって「人間をめぐる科学」の紹介する内容で、大沢枝里子、Kevin Saariがナレーションを行った。
・養老孟司氏 講演「人間の見方」
養老孟司氏は、企画当日の急用のため帰京されることになり、急きょ、前日夜に講演のビデオ録画を行って、それを上映することとなった。以下、その内容である。
科学の基本的な性質とは、合理化する、計量化するといったことである。本来の自然科学は、合理的であるとは必ずしも思えない自然というものを合理化・計量化することであるが、現代の自然科学は「予測と統御」という性質を肥大化させ、予測と統御ができない「自然そのもの」はできるだけ考えないようになってきている。人間がいつ何の病気で死ぬか、というようなことは科学では考えないのである。ここで、人間は真っ二つに割れる。よくわからない「自然身体」と、合理化され、計量化されうる「人工身体」の二つであり、社会が人工化すればするほど、「自然身体」としての人体・死体は隠されることになる。科学というシステムは、「自然」の側ではなく、「予測と統御」の側に大きく構築されつつあるのである。
・昼休み:人体展見学
昼休みを利用して、日米学生会議参加者と企画への一般参加者は人体展を見学した。
・榊佳之氏 講演「ヒトゲノムプロジェクトと社会」
榊氏は、まず最初にわかりやすくヒトゲノムとは何か、ヒトゲノムプロジェクトとは何かを説明され、つづいて、このプロジェクトが社会に貢献している例として、ゲノム解析が病気の原因究明につながる例をいくつか挙げた。たとえば、アルツハイマー病では、原因遺伝子がほぼ突き止められ、病気の発症機序の解明や治療法の開発が進められているそうである。
榊氏は、このプロジェクトに付随して起こりうる法律的、倫理的、社会的問題についても言及した。遺伝子解析で治療法が確立されていない病気になることがわかったときの対処のし方、胎児の遺伝子診断で異常が発見されたときの人工中絶の是非、個人の遺伝情報の管理基準など、様々な問題について、研究者間でも意見交換を行っているそうである。
最後に、榊氏はこう指摘した。「人間は、ゲノムを解く知恵と、それを使う力を有効に用いるべきであるが、自分たちは長い進化の歴史の中のほんの一時期にいる一つの生物にすぎないのだという謙虚さも必要である。」
・森岡正博氏 講演「遺伝子医学の倫理問題について」
森岡氏は、まず、20世紀の科学技術がメリットだけでなくデメリットも持っていることを指摘し、原子力の例を挙げた。そして、遺伝子医学の分野で現在起こりつつある問題点について述べた。
・<遺伝子診断>特に胎児・受精卵の遺伝子診断の問題。障害がある赤ちゃんの命を絶ってもいいのか?選別の可能性の広がりは、同時に人間の引き受ける責任の増大も意味する。
・<遺伝子治療>体細胞に対する遺伝子治療はすでに始まっている。受精卵に対する遺伝子治療は、その結果が子孫に遺伝されるので危険とされ、現在は行われていないが、いずれ行われる可能性はある。
・<ヒトゲノム解析>ゲノム解析自体に大きな倫理問題はないが、このプロジェクトはネットワークとして遺伝子診断・治療などとも密接に関わっており、副次的に様々な問題を引き起こすと思われる。ゲノム解析をしている研究者は、ネットワーク上でつながっている臨床上の問題についても社会的責任を負うべきだ。
つづいて、森岡氏は、遺伝子医学のはらんでいる問題についての問いかけを行った。
・<正常と異常の問題>異常なものは正常に戻すべきだという価値観が遺伝子治療などの技術を進めているが、この価値観は障害者の抑圧につながるのではないか?
・<障害者は少ない方がいいのか?>技術の進歩によって先天性の障害児の数が減ることが予想される。それをよしとする価値観の中で、われわれは障害者にどういうまなざしを向けるべきなのか?
・<生命の管理は幸福につながるか?>遺伝子医学の進歩によって人間の生命を生から死まで徹底的に管理できるようになり、自分の将来がある程度わかるようになるが、これは幸せなことだろうか?
・<一般の人と科学との関わり>科学者のやっていることや、科学者を抱えて成り立っている社会の運営方法について一般の人の側から問いかけを行うべき時代が来ている。
・パネルディスカッション「科学・人間・社会」
高野が仙台宣言について説明した後、「科学・人間・社会」をテーマとするパネルディスカッションが行われた。パネラーは以下の7名。
講師:榊佳之氏、森岡正博氏、沢田康次氏
日米学生会議参加者:高野利実、青山絵美、John Harding、Linda Kang
沢田 21世紀には、分子生物学とコンピュータ科学の接点として、人間がクローズアップされてくる。
高野 生命とは何か、知性とは何か、そして、生命と知性を兼ね備える人間とは何か。
森岡 「生命とは何か」というのは、「私とは何か」という問題を考えることである。
沢田 「人間の心」と「生きているということ」をもっと大きく、科学的に捉えるべきである。
榊 利根川進氏は「生物は非常に複雑な機械にすぎない」と言っているが、これは現代科学の方法論の極限である。ミクロに分析することはできても、それで全体の生命や人間が明らかになるとは思えない。
森岡 われわれの心や生命というものは、科学の方法論で理解できる側面と理解できない側面がある。科学が扱うのは、再現可能なものであるが、われわれの人生は再現可能ではない。
沢田 今後、自然科学が生命を扱うようになるにつれ、科学と哲学は深い関係を持つようになる。科学とnon科学というわけ方をせず、すべての人間が感情を持ちつつ、明晰な頭脳で考えるのが自然である。
Kang 科学はピュア ナあると思っていたが、そのどろどろした世界を見て失望した。
榊 科学は知的好奇心から生まれるという意味でピュアである。ただ実際に科学を動かそうとすれば、社会問題が起きる。社会への影響は常に考えるべきだが、純粋な科学はそのために止めるべきではない。
森岡 科学はピュアで、悪い使い方をするからよくない、という言い訳はすべきでない。
榊 約20年前、組み換えDNAの技術ができたときに、科学者はアシロマ会議を開いて、その社会的影響について考え、ガイドラインを作った。ゲノム計画でも同じような動きがある。
高野 この科学技術フォーラムのコンセプトとして「第二のアシロマ会議」というのがあった。日米学生会議という科学者にならない人が多い集団で科学の問題について考えることは意義のあることだ。
森岡 アシロマ会議は、こういう問題を社会全体で考えるときの貴重なモデルである。
Harding 科学は人を幸せにするか?
沢田 私は、昔から見れば今の状態はhappyだと思う。
Kang 科学が知的好奇心によるものだというのはわかるが、社会は、純粋な知識よりも、その結果の方に関心がある。科学をよく知らない政治家などの影響を受けずに、科学者は研究内容の決定をできるのか。
榊 科学者は政府などから多少の影響を受けるが、基本的には、自分の意志と責任で研究を行っている。
森岡 民間企業から金が出る場合は、見返りが求められる。国から金が出る場合は、国益が求められる。
高野 科学は、政治、金、権威の力を乗り越え、独自の哲学をもつ必要がある。
Harding 今後、科学の発展によって、本当に人間や宇宙のことがわかってくるのか?
沢田 科学ですべてはわからない。人間や心を知るのにも限度がある。科学はその限度を明らかにする。
森岡 いずれ、人類は科学の方法論でわかることはすべて知り、そこで科学は停滞する気がする。
「科学は人間を幸せにするか」というのは、「私」を幸せにするかというレベルで考えるべきだ。
沢田 デカルト以降の科学精神によって人類はわけのわからない中世から抜け出し、happyになった。
森岡 中世はわけがわからない、科学はデカルト以降にできあがった、というのは古い啓蒙思想だ。
沢田 人々が科学的精神を持つ限り、知るべきことは無限にあり、科学が飽和するとは思わない。
高野 森岡先生は科学の方法論の有限性、沢田先生は科学精神の無限性を言っていて、両方正しいと思う。
森岡 南北問題について触れたい。不妊治療などの先端医学に巨額の金が使われているが、もしその金を途上国の医療、衛生状態改善に使うなら、より多くの人が救える、という現実がある。
榊 先端医学は限られた目的でやっているのではない。南北問題は別の視点で考えるべきだ。ヒトゲノムプロジェクトでは南北問題を考慮し、途上国の人に情報を共有してもらう努力をしている。
高野 最後に、「科学・人間・社会」の調和について、まとめの言葉を。
森岡 アシロマ会議のようなことを一つのステップとしながら、複雑なネットワークを形成している現代社会において、いろんな立場の人たちの対話システムを築いていくことが21世紀では重要になる。
榊 科学者の方から一般の人に知識を公開して対話をしていくことが重要だ。ヒトゲノムプロジェクトはそのためのいいレッスンだと思う。このフォーラムのような場も意義がある。
沢田 人間とはどういうものかということを、科学の枠を超えて、すべての人類が考えていくのが21世紀の文化、学問だと思う。「知る」というのは科学の根本であり、happinessである。
Harding 人間とは何か、という問いは重要だ。科学には、じっくりと考えずに、すぐに問題を解決しようとする側面があるが、人間には曖昧さも必要だし、抽象的な問題をじっくりと考えることも必要だ。
高野 科学は巨大化し、経済、政治、南北問題など、様々な問題が関わるようになった。学生は、科学を科学者だけに任せるのではなく、自分こそが科学を制御するのだと思って、学問にあたっていくべきだ。
<1995年仙台宣言>
フォーラム当日の議論と、その後、日米学生会議の各分科会、および科学技術フォーラム企画担当者会議で行われた議論に基づいて、第47回日米学生会議は以下の「1995年仙台宣言」を発表した。
************* 1995年仙台宣言 *************
私たち第47回日米学生会議参加者一同は、1995年7月29日に仙台市で開催した科学技術フォーラムを通じて「科学・人間・社会」のあり方について考え、議論を重ねました。ここに私たちは「1995年仙台宣言 〜新時代における科学・人間・社会のあり方〜 」として以下の提言を発表します。
1.科学の現状
・科学者と非科学者の間の壁 〜科学って誰のもの?〜
これまで科学はおもに科学者によって扱われてきました。そして科学者の力で進歩した科学は人々に多大な恩恵を与えてきました。もはや現代の私たちの生活は科学なしには考えられません。
しかしながら科学者がどのようにして「科学」を扱っているのか、私たちの中のどれだけの人が知っているでしょうか。最先端科学の世界では専門化や細分化が進み、閉鎖された実験室の壁の内側は一般の人々には見えてきません。科学の成果が現代の日常生活に深く浸透し、影響を与えていることを考えるとき、このように科学が「科学者の科学」にとどまり、一般の理解からかけ離れてしまっている現状に私たちは危惧を抱かざるを得ません。いったい科学とは誰のものなのでしょうか。
今後、科学の発展はさらに日常生活に恩恵を与える一方で、様々な問題を引き起こしていくと考えられます。そのときに科学の暴走を許さず、すべての人々が「自分たちにかかわる問題」に対して発言できるように、科学者と非科学者の間に存在する壁をなくしていかなければならないと私たちは考えます。
・「科学」と「人間・社会」の間の壁 〜科学はどのように扱われているのか〜
近代科学は、科学から人間の心、主観、人間性、社会性を排除し、純粋で客観的な真実を追求することで発達してきました。科学の対象は自然の中に存在する「モノ」であり、科学者は「科学」と「人間・社会」の間に線を引いてきたといえます。現代の教育現場で「人間・社会」を扱う人文・社会科学と自然科学がきれいに分離されている事実はそれを象徴的に表しています。
しかし、遺伝子操作やヒトゲノムプロジェクトなど「人間をめぐる科学」が注目を集め、また、一つの科学プロジェクトが人間や社会に与える影響が甚大なものとなっている今、「科学」を「人間・社会」と切り離して考えるのはあまりにも不自然です。私たちは「科学」と「人間・社会」の間にある壁をなくし、科学に人間性や社会性を取り入れるべきだと考えます。
・科学技術と社会 〜科学技術は誰が動かしているのか〜
科学を扱うのは科学者ですが、科学技術の社会への応用には政治・経済などのシステムが複雑に絡み合っています。現代の科学プロジェクトは多大な費用を必要とするとともに多大な利権を産み出しており、もはや政治や経済の力学を考えずには科学のことは語れません。
しかし、政治や経済を扱う人々は利権とは関係ない科学の本質を理解しているのでしょうか?科学者は社会システムに流されてはいないでしょうか?利権追求や、好奇心追求の陰で私たちは倫理や人間性の問題を忘れてはいないでしょうか?
今後私たちは、政治や経済の複雑な絡み合いによって運営される社会システムの実体を念頭におきつつ、よりよい科学の姿を追求していく必要があります。
2.よりよい「科学・人間・社会」の関係を築くために
・ 哲学 〜「人間」として科学を考える〜
自然科学・人文科学・社会科学といった学問のカテゴリーはす べて哲学から派生し、独自の道を歩んできました。しかし「科学」「人間」「社会」が複雑に絡み合っている今、それらを総括して把握することができる哲学が再び必要とされてきています。科学者と非科学者の壁をなくすためにも、「科学」と「人間・社会」の壁をなくすためにも、そして複雑な社会システムの中で利権の追求を超えた科学のあり方を探るためにも、科学者、非科学者を含めたすべての人間に共通の知識と議論の土台、すなわち「哲学」が必要です。科学者を含めるすべての人間が「人間」として科学を考え、全体の調和と幸福を考える哲学をもって科学を扱えるような社会が理想だと考えます。
・倫理 〜みんなで倫理問題を考える場を〜
科学の発展にともない人間は多くの問題に直面してきました。ある科学の行為が正しいのか正しくないのか、許されるのか許されないのかということの線引きを考える倫理問題はその一つです。これはすべての人間が関わる重大な問題であり、すべての人間が考えるべき問題です。
科学者の好奇心追求、社会の人々の利益追求が科学技術の原動力となる中で、それにブレーキをかける倫理問題はとかく疎まれがちですが、人類の幸福にとってこの状況は好ましくありません。科学者も科学技術を動かす人々も、倫理問題をより重視するべきだと私たちは考えます。
科学の軍事利用に対する歯止め策を話し合ったパグウォッシュ会議、遺伝子操作のガイドラインについて話し合ったアシロマ会議が、科学者が科学倫理を考えた場として有名ですが、今必要なのは、すべての人々に開かれた形での「新パグウォッシュ・アシロマ会議」です。誰もが日常的に共通の土台で倫理問題を語れる場、そしてそれが科学のあり方や科学技術の応用に影響を与えられるような土壌が必要なのです。
また具体策として、科学研究の偏向を阻止する目的の倫理上の国際法も不可欠です。国家間の倫理のガイドラインを制定することで、研究の透明化をはかり、科学者の科学の暴走を事前に止めることが最善策と私たちは考えています。
・情報 〜科学を知るために必要なこと〜
「人間」として共通の哲学を持ち、すべての人々が共通の土台で倫理問題を語り合うためには、知識の共有が必要です。科学者だけが知っていること、一部の権益者だけが知っていること、というのはできる限りなくしていかなければなりません。そして、そのためには情報の適切な流れが重要です。科学者は自分の行っている科学の情報をすべて公開し、科学をめぐる社会システムもできるだけガラス張りにしなければなりません。さらに、情報を受け取る側も情報を受け取る努力をする必要があります。
また科学の進歩と同時に、研究の名のもとに個人のプライバシーを守る権利が侵される可能性が懸念されます。現在の研究の対象が人体からヒトゲノムまで、マクロからミクロにいたる人間に関心が移行していることからも、個人の情報の提供後に生じる管理と公開について考えなければなりません。
ヒトゲノムプロジェクトを例にあげると、現状では疾病の研究に重点が置かれているため、個々人の遺伝情報の収集にはいたらないといわれていますが、近い将来、プロジェクト完成後に個人情報の管理とプライバシーの問題が生じることが予想されています。
当初は研究目的に収集された情報が、結果的には管理者次第で情報提供者のプライバシーを侵害される危険が考えられます。将来私たちも情報の提供者となり、個人の情報が公開される可能性があるこ とを考慮し、情報管理者に対し常に適切な手続きを要求する姿勢を持つべきであります。
・教育 〜科学への理解を深めるために〜
科学者と非科学者の知識の壁を作り出している最大の要因は教育です。教育現場では理系の人と文系の人に分けられ、それぞれ別の教育がなされます。これによって文系の人の自然科学への無関心、理系の人の人文・社会科学への無関心が助長されているのです。科学がすべての人に関わりのあるものであり、人間・社会を無視して考えられないものである以上、教育によって知識の壁を高くしている現状は好ましくありません。これからは、理系・文系といったカテゴリーにとらわれない総合的かつ柔軟な教育が必要とされるのです。
また教育は学校教育だけではありません。テレビ、雑誌、広告等のあらゆるメディアからも私たちは教育を受けています。しかもそれらは時代の影響を受けてめまぐるしく変化し、さらには科学技術によって媒体そのものも進歩しています。私たちはそれらの推移を把握し、正確かつ的確な情報を享受かつ供給しなくてはなりません。そして教育は科学を決して絶対視することなく、その可能性と限界を同時に教えることが必要です。
|