僕のプレゼンテーションとそれに関するディスカッションは、8月7日と8日の二回のミーティングで、のべ4時間にわたって行われた。プレゼンテーションでは、まず、自然科学と宗教の歴史を、神・自然・人間という3つの要素の関係から見て、中世においては、宗教が絶対神という普遍性を追求し、自然科学が自然の中に存在する神の意志という普遍性を追求していたこと、デカルト以後の近代社会においては神と自然が分離し、宗教は人間・自然を超えた普遍性(神)、自然科学は自然の中にある純粋なる(神の意志によらない)普遍性を追求してきたことを述べ、自然科学・宗教の発展は、普遍性の追求という人間の本能的な欲求に基づいていると結論づけた。その上で、量子論の不確定性原理、カオス理論、宇宙科学における人間原理、生命科学におけるスーパーシステムなどを示して、近年の自然科学の普遍性追求には限界が見えてきたということを述べるとともに、宗教においても、信仰の多様化が進み、唯一絶対神の権威が失墜してきたことは普遍性追求の限界を示唆するものだと述べた。7日夜のプレゼンテーションはここまでで、この日の最後の方では、普遍的真理というものがこの世に存在するのか否かということで、白熱した議論が展開された。テーブル内で意見は真っ二つに分かれ、個人が考える真理というのが、普遍的真理を異なる視点から眺めているために違うように見えるだけなのか、あるいは、普遍的真理というのは人間の外側には存在せず、人間の個々の脳によってなされる認識が全てであって、各人にとっての真理が違っているのは当然であるのか、という点では、図を応酬して議論を戦わせた。結局、両者の意見は一致を見ることなく終わったが、テーブルメンバーはみなこのexcitingな議論に満足していた。
翌日、僕は、自分のプレゼンテーションの結論として、普遍性追求の時代は終わり、これからは「人間性の時代」になるということを述べた。自然科学は、これまで、人間の外側に純粋な系を作り上げ、その系で成り立つ事実から普遍性を見いだそうとして発展してきたわけだが、自然科学のいずれの分野においても、もはや「人間」を無視して考えることはできなくなっており、自然の中の人間、人間の脳が認識する自然、という前提の下で今後の自然科学は発展していくだろうし、そうあるべきだと述べた。そして、「認知科学」を中心とする自然科学と人文科学の学際化を、その方向性を示す例として挙げた。また、宗教に関しては、信仰は人間の脳の中にのみ存在するものであって、人間の外側に神が存在するか否かということよりも、人間が脳の中にいかなる信仰を持つか、ということの方が重要であると位置付け、これからの時代は、宗教や宗教の引き起こす様々な問題は、神のレベルではなく、人間の脳のレベルで考えるべきだと述べた。これら自然科学と宗教のあり方を見て、僕はそれを「人間性の時代」(The Age of Humanity)と名付けたのである。これからの時代、自然科学と宗教は、それぞれ、自然と神という長らく人間と接点を持たないと信じられてきた要素を介して、人間へと関心を向けることになる。自然と神は人間との関わりとして捉えられ、人間は自然と神に関わる存在として捉えられるのである。ただし、このことは、普遍性が人間性に収斂したということを意味するのではない。あくまでも、普遍性というものはこの世界には存在しないものであって、人間という存在は広く豊かな世界を見つめるための場、接点となるものだと考えるべきである。人間を接点として眺める世界は実に興味深いものである。
このプレゼンテーションは、テーブルメンバーにはおおむね好意的に受け止めてもらえた。また、interactiveな議論によって、発表以前には頭の中で曖昧であったこともclearにすることができ、僕は非常に満足であった。日米学生会議に参加する前には、哲学を深く考える機会はあまりなかったのだが、この哲学分科会と関わり、いろいろ考えることで、僕は哲学の魅力にとりつかれてしまった。「人間性の時代」にあっては、哲学の面白味も増してくる。今後も、この世界の様々なものと自分との関わりを、様々なレベルで探求していきたいと思う。
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