<2-8-5> 「としみの脳味噌」(日米学生会議日本側参加者向けの会報に連載したエッセー集)より
友情力あり
   城山三郎著「友情 力あり」(戦前、宮沢喜一氏らが参加した頃の日米学生会議を描いたノンフィクション)を読み終わった。面白い。そして、いろいろと考えさせられた。まず感じたのは、当時の会議が実に熱かったのだということ。友情も、参加者の想いも、議論も、すべてが熱い。開催が困難な状況の中で、日米学生会議をどうしても開かなければ、という使命感に燃え、実際にそれをやり遂げてしまう凄さ。今のわれわれも、大いに学ぶべき姿勢である。
 この本の登場人物の一人、山室勇臣の言葉。「戦前の厳しい環境の中で、外務省、文部省などの主催としたり、あるいはもっと依存する体制としたら、学生たちはどんなに楽であっただろう。しかし米国の学生は一切の官制会議では意味がない、学生が自由な立場でどこからも干渉されないで、議論できるのでなければ、本当の意見交換はできないのではないかということであった。われわれもこれが学生会議の大切なこととして、いかに難しいことがあっても、自分の手で汗水流して全力投球をした。それだからこそ、学生は自由な会議を守る心で一致し、団結し、そして相互に理解し合うことを世界的規模で進めることができた。」―――今のわれわれにこれだけの気概があるか。形がほとんどできあがっている、というのは確かに楽である。しかし、型にはまったままでは進歩はない。今のJASCは、国あるいは財界の日米交渉の縮小版というか、「もどき」をやっていて、あとは楽しい交流、という感じである。世界が、国あるいは経済主導で動いているという現状を考えれば、これはしかたのないことかもしれない。でも、自分たちは、「学生でありながらいかに国や社会のレベルに近づくか」を目指すのではなく、「国や社会ではなく、学生だからこそできること」を目指すのだという気概を持ちたいと思う。そのためには、国や財界から干渉されない自由な立場、というのを堅持する必要がある。
 「友情 力あり」の中に、戦後間もなく日米学生会議が再開したことについてのこういう文章がある。「日米財界人会議など夢にも考えられない時代でした。そこをまず学生のレベルで交流を始めるというので、財界は好意的でした。」つまり、この時代は学生が財界の先を行っていたのである。今のJASCに一番欠けているのは、この「先取性」である。このまま、国や財界の後追いを続けているだけでは、日米学生会議の存在意義さえ危うくなるのではないだろうか。47回JASCの総合テーマは"Forging our Future!"である。何も形のないものから新しい未来を創出する、というこの言葉、言い換えれば、「時代の先取り」である。学生の熱い思いで鉄を燃やし、未来を"Forge"すること、それが、僕らに課せられた使命だと思う。
 「友情 力あり」を読むと、戦後の新国家形成においてJASCerたちの果たした大きな役割が見えてくる。僕もJASCerとしての気概と情熱を持って、今後の人生を歩んでいきたい。「情熱 力あり」である。

(1994年9月)
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