<2-7-14> 鉄門だより(5521)1997年3月号
21世紀の「医」を考える 第3回「『医』と『死』
 

柏木哲夫氏インタビュー

柏木哲夫氏は、1939年生まれで、大阪大学医学部を卒業後、精神科医となられ、1972年に淀川キリスト教病院に精神神経科を開設するとともに、末期がん患者へのチームアプローチを始められた。ホスピスケアを実践するために3年間の内科医研修を受けた後、1984年に同病院にホスピスを開設し、以来、2000名以上の患者を看取っておられる。同病院の副院長、ホスピス長を経て、現在、名誉ホスピス長、大阪大学人間科学部教授、日本緩和医療学会理事長。「死を学ぶ〜最期の日々を輝いて」(有斐閣)、「死にゆく患者の心に聴く」(中山書店)など著書多数。今年1〜3月には、NHK人間大学で「死を看取る医学」の講義をされた。

 

―――21世紀の終末期医療で重要な点とは何でしょうか。

ホスピスの心と緩和医療学の二つの中心をもつことです。内村鑑三が「真理は二つの中心を持つ楕円である」という言葉を残していますが、物事の本質は、中心が一つの正円ではなく、二つの中心をもつ楕円形で描かれるものです。たとえば、真の母親というのは、やさしさという中心と、厳しさという中心の両方を持っているもので、やさしいだけではいい母親とは言えません。これからのターミナルケアを考えると、やはり二つの中心が必要だと思うんです。心や考え方についての中心と、実際の知識や技術についての中心です。日本のターミナルケアの歴史を振り返ってみると、ホスピスという考え方が中心になってきたと思います。延命中心の医療の反省から、その人らしい生を全うするのを援助していこうというホスピス運動が、心や考え方を中心に発達してきたわけです。私はその中で仕事をしてきて、患者さんの症状の緩和に対するまなざし、力の注ぎ方が少し不足していたと感じるようになりました。がんの末期の患者さんは、痛みとともに呼吸困難感、全身倦怠感などに苦しみますが、それをどうコントロールするかという研究がほとんど進んでいないのです。たとえば、全身倦怠感に対して、どのステロイドをどの段階でどれだけの量をどれだけの期間投与するのが一番いいのか、という学術的に研究したデータが全くありません。全身倦怠感にステロイドが効くという臨床的な経験から、みんな使っているわけですが、その使い方にスタンダードがないのです。これからは、ホスピスの心だけでなく、緩和医療の学術的な研究が必要だと考えて、私は日本緩和医療学会をつくったわけです。

―――先生はホスピスが終末期医療の一番いいあり方だと思いますか。

全ての人がホスピスで死を迎えるというのが必ずしもいいとは思いません。第一線の治療を受けて、最期まで闘い抜いて死を迎えたい人は闘ったらいいと思いますし、副作用の強い積極的な治療は控えて、症状のコントロールに徹底してもらって、静かな余生を送りたいという人は、ホスピスの方がいいでしょう。選択肢はたくさんあったほうがいいと思います。今までは、最期までやり尽くすという場ばかりで、症状のコントロールや精神的なケアを中心とした医療を受けたい人が行く所がなかったわけです。まだ数は少ないですが、ホスピスというものができて、そういう選択をしたい人の受け皿ができたと思います。

―――今はまだホスピスは少ないですね。

少なすぎます。全国ホスピス緩和ケア病棟連絡協議会には、現在60施設が参加していますが、そのうち厚生省の認可を受けている緩和ケア病棟は31施設です。各都道府県に一つはつくるというのがまず第一の目標だと思っています。淀川キリスト教病院は、待ち患者でいっぱいで、パンク状態です。全国的に、明らかに需要が供給を上回っています。ただ、だからといって、やみくもにホスピスが出てくるのも考え物です。ある程度の投資でハード面の基準はクリアでき、認可を受ければ経済的にはかなり有利になるわけですから、金儲けをしようとするホスピスが出てくるかもしれません。ですから、今クオリティーコントロールについて連絡協議会で話し合っているところです。

―――ホスピスが増えるのを妨げている要因は何でしょうか。

医師不足というのが大きいですね。ホスピスでやりたいというナースはたくさんいますが、責任をもってやっていける医師があまりいません。この問題を解決すべく、死の臨床研究会で医師の研修のプログラムを毎年やっていますし、日本緩和医療学会でも医師の養成について検討しています。しかし、緩和医療を専門とする医師をきちんと育成するためには、大学の医学教育の中で緩和医療学が一つの講座として認められることが必要でしょう。オーストラリアではすでに5人緩和医療学の教授がいるそうです。

―――現在の医学教育のあり方についてどう思われますか。

若い先生に患者さんの話を聞くこと、説明することができない人がいますが、医学教育ではコミュニケーションをきちんと取り扱っていないのではないでしょうか。膨大な知識を詰め込まざるをえないというのもわかりますが、教科書を読めばわかるようなことは、講義で一生懸命しなくてもいいと思います。私も、学生時代、解剖の授業で骨の名前などを細かく覚えて、ものすごい時間を使いましたが、骨の名前なんかは、教科書に書いてあるわけです。そういうことに膨大な時間を費やすよりも、臨床家になる上でもっと大切な、コミュニケーション、ケアの心、感性などを養う医学教育が求められていると思います。one-wayの講義での知識の伝授だけではだめです。

―――今医学教育でやられている内容は、コンピュータに置き換えられるものばかりであって、コンピュータで何でも引き出せるような時代になれば、知識だけの医者は存在価値がなくなると思います。

そうですね。これからは、感性、考え方、その人の持ち味などが問われる時代になってくると思います。私は学生の時に医学の勉強をしすぎたということを反省していて、医学部に通っている息子には、「なるべく勉強するな、医学以外の本をどんどん読め」と言っています。

―――先生は近著で「人間理解」の必要性を強調されていますね。

ターミナルケアにおいては、患者さんを人間として総合的に理解しなければなりません。人間を、生物学的、心理学的、精神医学的、社会学的など、様々な面から理解することが重要です。私の場合、もともと精神科医だったというのはよかったと思います。人間は非常にストレスの大きいときにどう反応するか、というのを精神科医はずっとみてきています。たとえば、失恋でも失業でも、何かを失った後、人間はだいたいうつになるというのがわかっていますから、がんの患者さんがうつ状態になったとき、この人はいったい何を失ったんだろう、という目でみることができ、それが人間理解につながります。骨転移で歩けなくなるという喪失体験からうつになった人には、「歩けなくなったのは本当につらいことですよね」と、心を込めて言うことができます。患者さんの心の状態をきちんと理解すれば、理解に基づいた言葉かけをすることができ、それが心のケアとなるわけです。
もちろん、精神的な理解だけではなく、肉体的な人間理解も忘れてはなりません。私はセント・クリストファーズ・ホスピスで働いた最後に日に、シシリー・ソンダースさんからこう言われました。「私ががんになって、非常に痛かったとしたら、そばにいてほしいのは、心の悩みをわかってくれる精神科の医者ではなく、私の痛みがどこからきていて、どんな薬をどのように投与すれば痛みが取れるのかわかっていて、それをすぐに始めてくれる医者だ」。ソンダースさんは私が精神科医であることを知っていて、「あなたは痛みのコントロールなどに関する内科的な知識をきちんと勉強しないとホスピスの医者にはなれませんよ」という間接的な提案をしてくれたわけで、私はそのとき「内科をもう一回やろう」と決めました。
痛みをとる技術と心の理解のどちらが欠けてもいいケアはできません。あるペインクリニックの先生が、「がんの末期の患者さんの痛みがとれたら困る」と言ったことがあります。まだ痛むと言われたら麻酔科医としてまだやることがあるわけですが、患者さんの身体的な痛みが取れたら、さびしいとか、つらいとか、必ず次の訴えが出てくるもので、それに対してどうしたらいいのかわからないと言うんです。ベッドサイドに行って、ゆっくり患者さんの話を聴いて、「つらいですね、しんどいですね」と共感的に声をかけるのが重要な医者の仕事だというのがわかっていないんですね。ソンダースさんは、「何もできないことを知りながら、患者のそばに居続けることがターミナルケアの真髄である」と言っています。

―――医者として患者に何かをするものだと考えていると、人間として人間のそばにいるという根源的なことを忘れてしまうんですね。

そうですね。患者さんの感じる痛みというのは、身体的痛みだけではなく、精神的痛み、社会的痛み、魂の痛みを含めた「全人的痛み」であって、それを理解せずに身体的痛みだけを治療していてはいいケアはできません。患者さんを全人的に理解して共感することが一番重要なのです。よく末期の患者さんを安易に励ましてしまう医者がいますが、頑張るだけ頑張ってきて、もう頑張れない状態なのに、そこで「頑張れ」と言われたらつらくてしょうがありません。患者さんは弱音をはきたい、つらい気持ちを聴いてほしいと思っているわけですから、医者は「患者さんの心を知りたい」という態度を示して、患者さんの言葉に耳を傾け、「つらいですね」というように感情の理解を示す言葉をかけるべきなのです。患者さんが望むコミュニケーションを遮断してしまう「安易な励まし」は避けなければなりません。

―――がんの告知についてはいかがお考えですか。

ケースバイケースですが、私は原則的に告知します。いいケアのためには告知が必要だと思いますが、日本ではまだまだ告知率が低いのが現実です。医師や家族は「患者がショックを受けて病状が悪化する」と理由をつけて告知をしないことが多いのですが、実は、そういう人たちは、告知をしたあと、患者がどのような反応を起こすか、自分がうまく対応できるかどうかが不安で、そのために告知ができないのではないでしょうか。自分の中の不安を患者側の問題に転嫁しているわけです。アメリカでは、1950年代には告知すべきか否かが論議され、60年代にはどのように告知すべきかが論議され、70年代には告知の後どのように患者を支えていくべきかが論議されてきました。私たちも、告知後にいかに患者さんと接していくか、ということをきちんと考える必要があります。死を医学の敗北と考えて否定するのではなく、患者や家族を死の受容へと導いていくのが本来の医師の姿でしょう。

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