―――サイコオンコロジー学会・緩和医療学会はどういう経緯で合同大会で行われることになったのですか。
サイコオンコロジー学会は10年間、河野博臣先生をはじめとして多くの方々が頑張ってここまでこられたわけですが、日本のサイコオンコロジーを今後世界に通用する学問とするにはどうしたらよいかなど、新しい方向に向かうべき時期を迎えていました。一方で柏木哲夫先生などが中心となって、痛みなど症状コントロールについての学問ももっと必要だと考えられ、昨年緩和医療学会が発足しました。私は二つの学会の世話を頼まれ、いろいろと考えて、合同大会でやることにしました。サイコオンコロジーは国立がんセンターとしても非常に重要な学問であると考えており、東キャンパスの研究所支所には日本で初めてサイコオンコロジー(精神腫瘍学)の研究部をつくりました。また、国立がんセンター東病院には緩和ケア病棟(PCU)があって、痛みなどがん患者の症状緩和の医療にも取り組んでおり、結局、創立5周年を迎える東病院が中心となって合同で開催することになりました。どちらも重要な学会であり、人間を基盤とした科学であるということは共通であり、また、お互いの会員の交流も有益だと考えたわけです。
今回の合同大会には1000人を越す方々にお集まりいただき、また積極的な討論も展開され、会としては非常に成功であったと思っています。これは国立がんセンター東病院、研究所支所の方々のご協力によるところが大きいと心から感謝しています。また、この会は、医師のみならず、看護婦をはじめ多くのパラメディカルの方々が参加されており、今後ともこの二つの学会はこのような方々が広く参加できる会でありたいと思っています。
―――先生ががん診療、終末期医療に関わるようになった経緯を教えていただけますか。
私はもともと内分泌学が専門で、アメリカではホルモン産生腫瘍、国立がんセンターに来てからは乳癌のホルモン療法、化学療法などに取り組んできました。がんセンターは内科腫瘍学(medical oncology)に力を入れており、進行、再発乳癌の治療は内科医が行っています。結果的には亡くなる方と接する機会も多く、いろいろ死の問題についても考えるようになってきました。国立療養所松戸病院に行ったのが1990年で、そこにはPCUがあって(1987年10月に国立としては初のPCU20床が誕生)、私も関わるようになりました。松戸病院と国立柏病院が統合して国立がんセンター東病院が開院したのが1992年7月1日で、そこには25床のPCUが開設されました。
―――東病院のPCUの設計理念はどんなものでしたか。
医学の進歩によって、人間を生かしておくことは随分できるようになりました。しかし、多くのチューブが体につながれるためスパゲッティ症候群とも言われる状態が出現するようになりました。最近は、このような病院のベッドにつながれたままの状態、これで本当によいのか、それが正しい医療なのか、という反省も出てきました。一般的に言って、普通の病棟ではどうしても病気を診ることが中心になってしまいがちですが、PCUでは「病気より人を看る」ということが重要になります。患者さんの症状緩和、QOLの向上、家族を含めた精神ケアなどを考えて、PCUの療養環境に配慮しました。一般病棟と違って規則はほとんどありませんので、面会はいつでもできますし、家族の宿泊も可能であり、自分の生活のパターンをそのまま持ち込むことができます。
―――やはり終末期医療はPCUやホスピスで行うのが理想でしょうか。
がんセンターでは多くの方が亡くなりますから、私たちもいろいろな問題につきあたりました。PCUのようなところでまとめて終末期医療を行う方が患者さんの要望に応えやすいというのが一応の結論です。もちろん、PCUといっても、隔離された病棟とは考えず、病院本体の診療機能との密接な連携のもとに運営されています。一般病棟においても、各ベッドごとに分散したPCUがあると考えて患者さんに対応することも可能ですが、一般病棟では、できるだけ早く診断し、適正な治療を行うことが目的になっているので、規則がきちっと決められ、効率が重視されており、その中でいかに個々の患者さんの求めに応じた終末期医療を行っていくかは難しい面もあります。
―――がん医療、終末期医療において医師の役割はどうなりますか。
患者さんは病気を治してほしいから医師のもとを訪れ、医師も患者さんに常に治る希望を持って医療を受けてほしいと思っています。しかし、がんの医療においては適応と限界があります。医療側は常に適応を拡げる努力が必要でしょうし、適応のある場合には積極的に治療を行うべきです。しかし限界だからといって医師の役目は終わりではありません。痛み、呼吸困難、食欲不振、うつなどがん伴ういろいろな症状を除くことも重要な医療です。しかし、このような緩和医療は現在まだけっして十分とは言えないと思います。まだまだ研究すべきことがたくさん残されています。また一方、がんといってもけっして同じ病気ではありません。乳がんと胃がんは私たちの目から見れば全く違う病気であり、同じ乳がんでも良性のものから極めてたちの悪いものまで様々です。加えて、そのがんの進行の度合い、さらに患者さんの年齢、考え方などいろいろな事情によりがんの治療は違っていきます。ですから、「がんは………」と言うことは不可能です。このようなことはがん治療の個別化(individualization)と言われています。これからのがんの医療はこの治療の個別化がますます進行すると思われます。そのためにも患者さんには十分に病気のことを説明することが必要でしょう。私たちも国立がんセンターのホームページ(http://www.ncc.go.jp)などを通じて、一般の方々に様々な情報を提供していますが、これもインフォームドコンセントの一環です。昔から「医師が匙を投げる」と言いますが、匙を投げた後にも重要な医療としての役割がある、それが終末期の医療でしょう。
―――医師-患者関係はいかにあるべきでしょうか。
治療の限界を越えると、医師と患者の間の会話がしにくくなり、両者の信頼関係が失われてしまいます。死を想像することもできないような若い医師が、どうやって現実に死を迎えようとしている人たちのお世話をしていくのか、というのは難しい問題です。しかし、医者も患者と同じくいずれは死にゆく人間であり、お互い人間として生き、いずれ同じように死ぬという事実を共通の基盤にすれば、もっと話ができるはずです。私は、よく若い医師に、「治らない患者さんほどそばに行くように」と言っています。「死を敗北とみる医療」から「死を考える医療」へと視点を変える必要があります。
―――「死を考える医療」とはどういうことでしょうか。
高齢化社会を迎えた今、各人が自分の死を見つめ、自分の生をいかに全うするかを考える時代になっていると思います。自分がいかに死ぬかという問題を正面から見据えていくような社会的風潮が醸成されることで、日本における終末期医療のあるべき姿が初めて明確になり、PCU、ホスピスなどの存在も生きてくると思います。そして、がんの告知が広がり、インフォームドコンセントがきちんと行われるようになるでしょう。「人間はいずれ死ぬものである」というところから出発すれば、サイコオンコロジー・緩和医療合同大会で立川昭二先生が医療者に託されたメッセージ「死をまもる」ということが非常に重要になってくるでしょう。
―――現代社会において、われわれは「死」といかに向き合うべきでしょうか。
私の祖母、両親はみな自宅で亡くなりましたが、今、家で死ぬということはあまりなくなって、死というのも自分の身近であまり見られなくなってきました。人間は必ず死ぬのに、死んでいかれる方を実際に送ったことのない人が多くなっています。死はタブーとして遠くに追いやられてしまっているのです。ただ、最近、永六輔さんの「大往生」などのように、「死」について書かれた本がたくさん出るようになり、少しずつ自分の死について考える風潮が生まれてきているようで、医療もそれに合わせて変わっていくべきだと思っています。
若い人には死の実感があまりないでしょうが、人間は年をとるにつれて死を見つめるようになり、そして、死をみつめるからこそ自分の生涯をいとおしむことができるようになります。病院を訪れ、「まあ年のせいでしょう」と言われれば納得する患者さんが多いことからもわかるように、年をとること自体は病気とは考えられていません。老いというのは、自分がやがて死ぬということを自然に認めさせるプロセスなんだと思います。
患者さんから教えてもらった西行法師の有名な歌に、
願はくば
花の下にて春死なむ
その如月の望月のころ
というのがありますが、人はみなこのような気持ちで自分の死を迎えたいと思っているのではないでしょうか。
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