<2-7-12> 鉄門だより(5521)1997年3月号
21世紀の「医」を考える 第3回「『医』と『死』
 

河野博臣氏インタビュー

河野博臣氏は、1928年生まれ、久留米医科大学を卒業後、九州大学結核研究所、京大胸部疾患研究所を経て、1965年に神戸市に河野胃腸科外科医院を開院された。1974年に「死の臨床〜死にゆく人々への援助〜」(医学書院)を著し、日本心身医学会の分科会で「死の臨床」の研究を始め、1977年には「死の臨床研究会」を創設された。がん疼痛対策に取り組み始めた世界の動きの中で、1984年には、東京での「WHOがん患者のQOLに関するワークショップ」開催に携わり、1986年には、国際サイコオンコロジー学会結成を受けて日本サイコオンコロジー学会を創設され、その後、国際サイコオンコロジー学会副会長となられ、1995年10月には、震災後の神戸で国際サイコオンコロジー会議を開催された。「死の臨床研究会」は昨年第20回を迎え、日本サイコオンコロジー学会は今年3月に第10回を迎えて、「死の臨床」は一つの文化として社会に浸透してきたが、河野先生はすでに両組織の代表を退かれ、顧問となられている。1982年から約7年間、東大放射線科前教授の故・飯尾正宏先生(昭30卒)に非常勤講師として招かれ、東大病院のターミナルケアに取り組まれるなど、活動は実に幅広い。河野先生のそういったターミナルケアへの取り組みは、「『死の医学』への日記」など柳田邦男氏の著作にも詳しく描かれている。

 

―――先生がターミナルケアに取り組まれたきっかけは何ですか。

昔、僕ががんの患者さんを切りまくっていた頃には、死んでいく患者やその家族がどういうことを感じているのか、なんて考えていませんでした。ところが、今から36年前に2才の娘を事故で亡くしたのがきっかけで、僕はうつ病になり、ユング派の分析を受け始め、やがて、子供の死(2人称の死)がわたしの死(1人称の死)になっていきました。僕は、子供の死はわたしの死であり、患者の死もわたしの死であるということに気付いたのです。それをベースに、意識化されたレベルの死について書いたのが「死の臨床〜死にゆく人々への援助〜」です。僕の場合、死んでいく人がたくさんいるからターミナルケアが必要だと思ったのではなく、ユング派の分析で「わたしの死」を見つめているうちに、死んでいく人に対して共感的なレベルでサポートしなければ、という気持ちが湧いてきたのです。だから僕の「死の臨床」というのは、あくまで「わたしの死」であって、いわゆる3人称の死ではありません。自分の中から出てきたものですから、「死んでいく人にはこうするべきだ」という箇条書きのものではないのです。

―――「1人称の死」を見つめてこられて、今、先生にとっての「死」とはどんなものなのでしょうか。

僕はそうやって30年以上死の問題を考えてきたわけですが、それでもずっと死ぬのは怖かったんです。それが、最近になっていくつかの体験をし、死に対する恐怖というのがなくなりました。
3年前の第18回死の臨床研究会で私は会長を退いたのですが、そのとき、私の生前葬が行われ、そのあとで、「死者の側から見たホスピスケア」という演題で講演をさせられました。参加者1300人の集まった会場にお経が流れ、アルフォンス・デーケン教授と柏木哲夫教授が先導して、僕が入っている棺桶が運ばれました。棺桶の中に入ると世界が変わりますね。ああいう暗黒の中の死の世界というのは、浮世に比べれば「絶対」であり、外で話す声とともに、話している人の顔がありありと感じられます。お棺をかつぎ上げられると、魂が中空に浮いたような感じで、「チベット死者の書」にあるような状況です。お経は、人間の心臓の鼓動、お棺の中で感じるリズムと不思議に調和します。グレゴリオ聖歌も同じでしょう。単純だけど非常に心が和みます。お棺の中では時空がなくなる感じで、そのとき、死というのはあまり怖くないと感じました。
死に対する恐怖をなくさせたもう一つの体験は、一昨年の夏、長野の小淵沢で起きました。小淵沢には、ちょっと前に亡くなった飯尾正宏先生の別荘があって、飯尾さんのことを思い出していたら、森の中で、木や草の声などが聞こえてくる状態になって、ユングの言う普遍的無意識というのを感じたんです。人間の無意識には個人的無意識、家族的無意識、文化的無意識とあって、一番深いところにあるのが普遍的無意識です。そこでは、人間であろうが、動物、植物であろうが、全部同じで、つながっています。人間は意識の部分が他の生物に比べて大きくなっていて、それが無意識から離れようとする葛藤が死の恐怖を起こしていますが、動物や植物は、人間と違って怖いともなんとも言わずに死んでいきます。意識の部分は異なっていても、すべては根底でつながっているのです。そう考えれば、再生というのがすんなりと受け入れられ、死への恐怖はなくなります。
実は、こういう感覚というのは、日本人が古来から持っている死生観です。梅原猛さんが言うように、死んだら人は裏山に帰っていき、正月とかお盆とかに霊が戻ってきて、その里で子供が生まれたら生まれ変わっていくのです。この思想は、仏教が伝来する前から日本人の中にありました。僕は学生のときにキリスト教の洗礼を受け、以来51年間クリスチャンとして過ごしてきましたが、僕の根底にある死生観は、キリスト教によるものではなく、日本古来のものだったのです。
現代の日本人が死を怖がるのは、あの世を持たず、ただ科学的に「死んだら終わり」と考えるからです。あの世があるとかないとかいうのは、現実にあるとかないとかではなく、その人の中にあるかどうかの問題です。あの世がその人の心にあるかないかで、死の受容というのは変わってくると思います。僕がユングの言葉で一番好きなのは、「無意識はつねに死を受け入れているが、意識はそれを知らない」というものです。死、永遠の眠り、あの世というのは無意識の世界のものであって、自分で体験しないとわかりません。人間というのはよくできていて、老境に入ってくると、無意識の体験が増え、死の受容もしやすくなるものです。

―――医療者は死にゆく人といかに接するべきでしょうか。

人の苦しみを、その人の側に立って共感的に理解できる自分を作り上げることが大事です。死の臨床というのは、本を読んでわかるものではありません。死にゆく人と一緒になって死の淵まで歩いていくことで、その人の個性化の段階を一緒に歩くことができ、その過程でその人からいろんなことを教えられます。患者さんと出会い、深い悩みや苦しみの中に入っていくことでこちらが教えられて、本当に医者になってよかったと思えます。コミュニケーションの中で、向こうもこちらも変わっていくわけです。
治療の原点というのは、患者の病をセラピストとしての医者が自分の中にしょいこんで、自分の中でそれを癒すということです。医の神様というのは、自分の中にけっして治らない病を持っているもので、自分の中に病を持っているから患者さんの病が理解できるのです。医者があまりにも健康すぎると、患者さんを病人にして突き放してしまいます。そうではなく、自分の中にある病の部分、影、死をみるというのが大事です。そういう自己分析がないと、患者さんを共感的に理解できないですね。
1984年の「WHOがん患者のQOLに関するワークショップ」では、悪性リンパ腫を患っていた東大法学部大学院生の上本修君がひときわ素晴らしい講演をしました。「患者は医者の所有物ではありません。医者は患者のパートナーになってほしい」と。彼が亡くなるときは、お互い手を握り合って、ベッドの上でひたすら祈りました。僕は彼のために、彼は僕のために。おおよそ現代医学でやることとは思えないですが、彼はあの中で本当に平安でしたよ。

―――先生が取り組まれている「完成期医療センター」について教えて下さい。

完成期医療センターは、6年前から準備をやっていて、震災の影響で遅れはしましたが、ようやくめどが立ちました。人口20万くらいの地域を対象とした在宅ホスピス中心のプログラムを作っているところです。ナース、ソーシャルワーカー、サイコロジストなどが中心となって3〜4個の在宅ホスピスケアチームをつくり、在宅ケアで症状緩和できないような人が病棟ホスピスをデイケア、ショートステイのような形で利用することになります。オンコロジーナースを養成し、責任者はできるだけナースにします。町の中に、博物館や美術館と同じようにコミュニティーヘルスセンターがあって、病棟ホスピスだけでなく、癌患者のためのプログラム、高齢者、子供のためのプログラムなども入れて、それを地域の住民が運営するような形にしたいのです。
ターミナルケアは、思想、文化として浸透しつつありますが、まだまだ市民中心の医療福祉としては根付いていません。僕は、完成期医療センターで市民中心の医療福祉のモデルを作ろうと考えているのです。

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