<2-7-11> 鉄門だより(5521)1997年3月号
21世紀の「医」を考える 第3回「『医』と『死』
  序論
  <死とは何か>
誕生の時にはあなたが泣き
全世界は喜びに沸く
死ぬときには全世界が泣き
あなたは喜びにあふれる
かくのごとく生きることだ
――このインド人のことばには、人生の理想的なあり方が凝集されている。しかし、この短いことばの背後に「死」の深淵をみるとき、私ははっと息を飲む。全世界を泣かせるものは何なのか、「喜びにあふれる死」というのはありうるのか、そして、そもそも「死」とは何なのであろうか。
"Man is mortal."という厳然たる事実は、実感の差こそあれ、全人類に共有されている。そして、この事実につき動かされて、人々は思索し、文化を築き、歴史を刻んできたのである。古今東西の人々にとって、「死」は避けることのできない重大なテーマであり、思索の跡が様々な形で残されている。以下、いくつかの言葉を挙げながら、死の深淵にわずかながらの光を当ててみようと思う。
「人間とは死へ向かっての存在である」「人間は、生まれるとすぐ、もう死んでも十分な存在となっている」と言ったのはハイデガーである。ハイデガーは、人間存在をこのように規定し、「現存在の最も自己的な、没交渉な、確実な、追い越し得ない可能性」である「死」から目を背けず、その可能性の内への先駆として、自己自身を開示することが「本来的」なあり方であり、日常性を支配する、死や死の不安に直面することからの逃避を「頽落」と呼んでいる。このように、「死」を人間存在や生に内在するものとして捉え、それに真正面から向き合うべきだと考えた人々は数多い。
「昔は誰でも、果実の中に核があるように、人間は皆、死が自分の身体の中に宿っているのを知っていた。死をみんなが持っていたのだ。それが彼らに不思議な威厳としずかな誇りを与えていた」(リルケ)、「人生行路の終点は死である。これがわれわれが必ず目指さざるをえない目標である」「どこで死がわれわれを待っているかわからない。だから、いたるところでこれを待とうではないか」(モンテーニュ)、「生きることは生涯をかけて学ぶべきことである。そして、それ以上に生涯をかけて学ぶべきは、死ぬことである」(セネカ)、「死が生に有限性と一回性を与えているがゆえに、生を意味あるものにしている」(フランクル)、「私は、死を目指すべき目標と見ることは有益であり、死を忌むべきものと見ることは、人生の後半を無意味にしてしまうという点で、不健康かつ病的であると考えている」(ユング)、「現在を楽しみつつ生の甘き夢に耽る人間主義の人間に覚醒を促しつつ、わが正体、わが真の現実を知らしめるのが死の意義である」(波多野精一)、「生が終わって死が始まるのではなく、生が終われば、死も終わるのだ。死はまさに、生の中にしか存在しないのだから」(寺山修司)、「死というものは、ずっと彼方まで続いている生の涯にひそむものではなく、実は生の裏側につながっている」(北杜夫)。
実感を持って「死」に思いをいたすとき、その「死」は死後の世界においてではなく、日常の生々しい身体において捉えられるわけである。死について深く思索すればするほど、死は生に深くくいこんでくるのだということを、これらのことばは語っている。しかし、多くの人間にとって、生にくいこむ死は恐ろしくて正視できるものではない。
「太陽と死は、じっと見つめてはいられない」(ラ・ロシュフコー)、「人間は死と不幸と無知を癒すことができなかったので、幸福になるためにそれらについて考えないことにした」「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目を遮るものを前方においた後、安心して絶壁の方へ走っているのである」(パスカル)、「われわれは、自分達がやがて死ぬことを知っている。けれども、われわれはけっしてそのことを信じない」(ボッシュエ)。
このように、多くの人は死に恐怖しながら、それを隠蔽しながら生きているわけだが、その一方で、死を生からきっぱりと切り離し、死を考えずに生を謳歌すればいいと言うエピキュリアンもいる。
「死は、諸々の悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、実はわれわれにとって何ものでもない。われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、われわれは存しないからである」(エピクロス)、「生は、それが存在を続ける限り、いかなる死にも汚されぬ自由なものである。なぜなら、ぼくは生きている自分しか考えることができないからだ。人間は生のために作られた存在であって、死のために作られた存在ではない」(サルトル)、「われわれは排泄分泌を行うたびに、放出された物質のことを嘆き悲しむこともなしに、自分の形を保つことで平生に満足しているが、同じようにわれわれは死についても、排泄分泌と同じことがより高い次元で、全体的に行われるのだという考えに立つべきである」(ショーペンハウアー)。
しかし、死を無視しようとするこれらの言説には、やはり無理があるように思える。自分の中に宿る「死」の存在を認める方が素直な態度ではないだろうか。モンテーニュは、人間の中の生と死のバランスについて、「自然」が「人間」に語りかける形でこう説明する。「死はお前たちの創造の条件であり、お前たちの一部分である。お前たちが現に享受している存在は、死と生に等しく分かれている。もしお前たちが死をもたないならば、それを与えられなかったことで、お前たちはたえず私を呪うであろう。私は、死の経験の安楽さを知っているから、お前たちが無遠慮に死を企てるのを妨げるために 、わざと死にいくらかの苦味をまぜたのだ」。
人間とは生と死を合わせ持つ存在であり、生を侵襲する死は否応なく恐怖をもたらし、多くの人はそこから目をそらしてしまう。現代において「死」が隠される理由もそこにあるだろう。しかし、豊かな生を送るためには、人間の文化や歴史を形成する原動力としての死を見つめ直すべきではないだろうか。「死の臨床」「死の医学」がさらに広く語られるようになるための前提としてもそれは重要である。

<現代の死>
柏木哲夫先生は、現代の死の特徴として、「家庭死から病院死へ」「交わりの死から孤独な死へ」「情緒的な死から科学的な死へ」「現実の死から劇化された死へ」という4点を挙げている。これはまさに死の医療化であり、死の舞台は病院に追いやられ、死にゆく者と看取る者との関係は断ち切られ、死は生理現象としての「死亡」に還元され、現実感の乏しい出来事になってしまっている。小松美彦先生は、こういった死のあり方を「個人閉塞した死」として批判し、「共鳴する死」が理想的なあり方だと述べている。「共鳴する死」とは、「死者をめぐる人々に滲み入りながら徐々に到来し、変化し、流れていく人々の関係の諸総体」であって、死が共鳴するとき、「人々はひとつの死をともに生きる」のである。西欧中世には、このような死が実際に存在していた。死のあり方の歴史的変容を考察したアリエスは、「自らの死の接近を察知した人が知人を呼び寄せ、公開の儀式がごく自然にとり行われ、死にあって生者と死者が共存する」という「飼いならされた死」が前近代まで存在していたと述べている。近代以降、そういう身近な人間関係のうちに抱え込まれ公開される「死」は忌み嫌われるようになり、死にゆく者は単なる医学の処置の対象として病院の中に隔離され、喪の習慣は省略され、死は「倒立した死」となった。「病院は、死が公開性から確実にのがれることのできる唯一の場所となり、公開性はその時から、病的な不作法とみなされた。こうして病院は孤独な死に場所となった」。
約8割の人が病院で死ぬという時代にあって、われわれは医療化された現代の死に慣れきってしまっているが、やはりこれは自然なあり方だとは到底言えまい。先日成立した臓器移植法は、移植医療推進のためには歓迎すべきだとは思うが、人間の「死」を生理現象としての「死亡」に還元し、それを法律で一律(厳密には脳死と心臓死で二律か?)に規定するのには違和感を覚えずにはいられない。「死は心臓や脳が機能停止した瞬間ではなく、死の予感から埋葬の向こう側までの、一連の時間的な流れである。死が共鳴するとき、死にゆく者とその傍らに集まる者とは、過去・現在・未来を分かち合い、ひとつの死をともに生きる」(小松美彦)。

<私と死>
阿部薫先生から「若い人には自分が死ぬという実感はないだろう」と言われたときはハッとした。これまで私も死についていろいろ考えてきたが、はたしてどれほど実感をもって考えていたのだろうか。本稿でここまで論じてきたことも、読み返してみれば、単に本の受け売りであって、「私の死」というのは微塵も感じられない。ここでは、若い者なりに、私にとっての死について考えてみる。
思えば、私はほとんど「死」に接したことがない。葬式というのに参列したのは、曾祖母と祖母が亡くなったときの2回だけであり、死にゆく人を看取った経験はない。救急の病院実習で「蘇生限界」まで心臓マッサージをやったことはあるが、肋骨が折れる感触以外に死にゆく人と私との関係性は実感できなかった。しかし、こんな私に、人間・死について考えさせるきっかけを与えた「死者」がいる。3年前の解剖実習で半年間関わりをもった男性と、2年前の夏、私が日本で初めて企画した「人体展」で、仙台まで一緒に行ったプラスティネーション標本のドイツ人男性である。養老孟司先生は、解剖をする遺体が、最初は他人だったのが、そのうち感情移入していき、30年も経つと同一化して、「これは自分だ」と思うようになる、と言っているが、私も、同一化まではいかないにしても、関わりを持った彼らには言い様のない親近感を覚えている。プラスティネーションの彼は、今も全国各地を巡っていて、この夏には横浜に来るというから、また会いに行こうと思っている。
私のまわりにある「死」とはこんなものであって、それが「私の死」に切実に結びついているとは思えない。子どものとき、「眠ったまま目覚めることなく死んでしまったら」と「私の死」を恐怖して眠れなくなったことはあるが、今は、まだ当分死なないだろうという漠然とした確信が「私の死」の実感を妨げているように思う。山本俊一先生が言うように、「幼稚園から大学までの長い教育課程で教えられるのは山の上り方だけであって、下山のやり方に関しては、だれも教えてくれない」のであって、私には山を上っているという実感しかないのである。ハイデガーは「死は確かに来る。しかし当分の間はまだ来ない。この『しかし』ということによって、ひとは死の確実性から眼をそむけてしまうのである」と書いているが、私はまさにそういう「頽落」した人間である。こんな私が「死」を論じるのは全くおこがましい話ではあるが、医療者としての思索のイニシエーションとして受け止めていただければ幸いである。
「私の死」は私にとってかくもつかみにくいものであるが、そんな私に、山本俊一先生の著書「死生学」は、「自己の死」との関係の持ち方について貴重な示唆を与えてくれる。山本先生によれば、人間が9歳頃に初めて認識する「自己の死」は、無意識の領域内で、生涯にわたって存在し続け、絶えず隙をねらって意識の中にもぐり込もうとするものである。人間は厄介な「自己の死」を無意識に押し込んで、なるべく考えないようにするが、中年期になると、「自己の死」が意識に入り込むことが多くなり、老年期になると、意識に長く停滞して無意識の中に押し戻すことは困難になる。山本先生は、自己保存とは逆転した、自ら死へと進む本能に由来する潜在力を「モリドー」と名付け、こう言う。「モリドーを無理矢理に無意識の中に押し込めてしまおうとしたり、あるいは逆に、全く放任して意識内への自由な侵入を許すようなこともせず、無意識の中のモリドーを時々意識の方に誘導し、蓄積したエネルギーを適度に拡散させ、絶えず調和のとれた平衡状態を保たせるように調整しなければならない」。なるほど、リビドーによって生(性)の欲求に生きるだけでなく、バランスよく自己の死を見つめることも生きる上で重要なことだろう。その意味で、30年以上も死の臨床に関わり、他者の死とともに自己の死を見つめてきた末に、「最近になってようやく死の恐怖を克服した」と言う河野博臣先生の言葉は私の心に重く響いた。私と「自己の死」とのつき合いが今後どれだけ続くかわからないが、そこから目をそらすことなく、過度に恐怖することなく、生涯をかけてよい関係を築いていきたいと思う。

<人称と死>
最近の死をめぐる文章では、しばしば「死」を人称によって捉えた議論が登場する。村上陽一郎先生は、「死」には、誰もが知っている、絶対確実な「人間一般の死」と、誰も決して知ることのない、絶対不確実な「私の死」の二つの極相があると述べ、前者を第三人称の死、後者を第一人称の死と呼ぶ。われわれが語りうるのは、第三人称の死であり、それは、一つの生理的現象であり、消滅であるにすぎない。第一人称の死は弧絶性の中にあり、それゆえ人々は迎えるべき「私の死」を恐怖する。そして、この死の二つの極相を結びつけるのが第二人称の死である。第二人称の死は、確かに他者の死であるが、自己の死に限りなく近づくものである。人は、第一人称と第二人称的他者に分極する以前の「われわれ」の記憶を引きずっており、その記憶において第二人称の死を自分の死であるかのように掴むことができるのである。このような第二人称と第一人称の関わりを多くの人が様々な形で表現している。
「我々が『自分の死』として考えるものは、まさしくこの自分が『死なれた』他者との間における、『自分』の死なのである」(大庭健)、「愛する者の死は、自分にとってもやはり死である。ただし、これは肉体的ではなく精神的な死であり、また、完全ではなくて『部分死』である」(山本俊一)、「死とは個体の意識と身体の消滅であり、共同性の地平からの個体の永久的な脱落であるという認識は、ただ他の人の死を、やがてめぐってくるべきわがこととして強く感じとるという、人間に特異な能力によってのみ可能となった」(小浜逸郎)、「一人の人が死ぬということは、その人に対し二人称の立場にある人の心の中でも同時に、共有していた何かが失われ、死んでいく」(柳田邦男)。
こうして考えてみると、「死」への距離というのは、人称や場面によって様々でありうるというのがよくわかる。ところが、近代科学は、この距離感を無視して、全ての死を第三人称の死として一律に捉えようとする。第一人称の死の恐怖、第二人称の死の悲しみ、といった人間性の「どろどろした」側面はタブー視され、現代の病院では徹底的に排除される。これでは死にゆく人との豊かな人間関係は望むべくもない。これからの医療に求められるのは、ありのままの死を抱え込むことであり、医者も、第一人称の死を抱える人間として、死にゆく人の第二人称の死と向き合いつつ、自己の死をを見つめる必要がある。

<死の文化>
「死」が科学や法律によって規定できる事象ではないとすれば、もっと広く「死」を語る視点が必要である。「死の文化」とはその一つであろう。以下、「死の文化」に関する二つの講演の概要を紹介する。
アルフォンス・デーケン先生、鉄門総会記念講演「新しい死の文化の創造」
――文明と文化は混同されることが多いが、文明が、物質的・技術的で、進歩を前提としているのに対し、文化とは、精神的な価値実現のあり方であって、進歩とは相容れない。文明論的に延命医療を行い、死と闘うのではなく、人間らしい死に方を目指すのが「死の文化」である。死には、肉体的な死(狭義の「死」)、心理的な死(生きる意欲の喪失)、社会的な死(社会的な存在意義の喪失)、文化的な死(文化的生物としての役割の喪失)、という4つの側面があり、医療は、肉体的生命の延命から総体的生命の延命へ発想を転換すべきである。治る患者にはdoingが必要だが、治らない患者にはそれよりもbeing(そばにいること)が重要である。「助け人自身が助けである」(キエフ)、「ともに喜ぶのは2倍の喜び、ともに悲しむのは半分の悲しみ」(ドイツのことわざ)。死の文化においては、コミュニケーションとともに、心と心のふれあいとしてのユーモアが重要な意味を持つ。「ユーモアとは『にもかかわらず笑うこと』である」(ドイツの定義)。
立川昭二先生、日本サイコオンコロジー学会・緩和医療学会合同大会記念講演「『死をまもる』ということ」
――「尊厳ある死」というのは、人の「生をまもる」ことだけでなく、いかに人の「死をまもる」かということでもある。人が生より死へ向かって歩み始めたとき、それをより自然に歩ませることができれば、それこそ尊厳ある生と死の実現であろう。医療が今日のよう高度化・病院化していなかった時代には、むしろ人の死がまもられていた。たとえば、斉藤茂吉は、大正2年、母の死の枕辺にかけつけて、「いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死ゆくを」と歌ったが、ここには、死にゆく人があれば、親しい者たちが集まり、死に水をとり、死への旅立ちに立ち会う、という古くからの日本人の心性が表れている。「いのち死行く」というのは、連続的に生から死へと移りゆくものであり、その「死ゆく」過程をしっかりと「見たり」でなければならなかった。こうした「死の作法」によって、死にゆく人は自分の死と和解し、死を看取る人は愛する者の死を了解したのである。

死にゆく人といかに接するかを考えるとき、デーケン先生の「死の文化」、立川先生の「死をまもる」は大いに示唆的である。現代医療は、「死」の深層にあるどろどろとした人間的・文化的な部分を切り捨て、「死」の徹底的な合理化をはかってきたよう思うが、これからの医療は、豊かな文化が繰り広げられるべき「死」をありのままに受け止めるべきである。生の哲学が「死」を弁証法的に捉えることによって成り立つように、生は「死」をまもることによってより豊かになりうる。医療が生を守ることを使命とするならば、必然的に、死をまもり、死の文化を抱え込むことも求められるのである。

<医と死>
1994年の1年間の総死亡者数は、約88万人、うち76.8%が病院などの施設で亡くなっている。厚生省推計によれば、亡くなる人の数は、1999年に100万人を超え、2012年に140万人を超えるとされており、「医」が直面する「死」の数は明らかに急増する。高齢社会において、高齢者介護の問題が頻繁に取り上げられているが、死者の数が急増するというのも大問題である。病院の容量の増加が望めない現状から考えて、自宅や介護施設での死など多様な死のあり方を考えるのが急務であり、「医」は、今まで以上に柔軟に多様な「死」に対応することが求められるのである。今のまま「死」の合理化を進めて、より多くの「死」を手際よく処理する、という形での解決を図るならば、未来は末恐ろしいことになってしまうだろう。21世紀の「医」は、「死」にいかに向き合っていくべきなのだろうか。
私は、高校生の時、NHKスペシャル「人体」に衝撃を受けた。「免疫システムは老化とともに崩壊し、やがて免疫細胞は自己を攻撃し始める」という説明は、医師を志していた少年にとってあまりにも重かった。「人間は死ぬようにつくられている」――。それまで、「人間はやがて死ぬ」というのは理解していたが、「いつか遭遇するであろう死」と「人間に内在し必然的、積極的に起こる死」というのは全く違うものである。外からやってくる死を近づけないようにするのが医の仕事だと漠然と理解していた私は、「医」の意味づけを根本的に失い、以来、「医は、死を内在させる人間に対して何をなすべきか」というのが、私にとって大きな命題となったのである。
実は、私のこのまなざしの転換は、フーコーの言う「臨床医学の誕生」、特に19世紀初めの病理解剖学の確立による「死」の視点の獲得と同様の構造をなしている。フーコーによれば、生-病-死は、18世紀以前には、健康な生が事故として病となり、それによってやがて死ぬ、という時間的関係として捉えられていたが、「死」からのまなざしの獲得によって、「死」を頂点とする三角形となり、現実に持続する「生」と、逸脱の可能性としての「病」が、同一空間の中にとらえられるようになったのである。「人間が死ぬのは、彼が病気になったからではない。人間が病気になることがあるのは、根本的にいって、彼が死にうるものだからである」「今や死は、その存在自体において、病の源泉としてあらわれる。つまり、生命に内在する可能性であって、しかも生命よりも強く、生命を消耗させ、歪め、ついに消滅させる可能性としてあらわれる」。死は生に内在するものであって、病になるのは事故ではなく、生と同じく必然なのである。
19世紀初めに獲得されたはずのこのまなざしであるが、現代医療ではあまりこれが感じられない。病は事故であり異常であって体の外に排除すべきものである、と頑なに信じていれば、病や死を自然に受け止められないのは当然であり、そういう信念に基づいて行われる延命至上医療は、結局のところ、患者の「生」をも傷つけるのである。充実した「生」を提供するために、医療者は、病も死も、生に内在する必然であるという現実を見つめ直し、それを前提に医療を展開するべきではなかろうか。「医」は人間の生老病死をすべて抱え込むことで初めて成り立つものである。

<まとめ>
今回の「21世紀の『医』を考える」では、6面にわたって「医」と「死」の関係を考えてきた。「死の臨床」を実践してこられた河野博臣先生には、「死から生をみる」ということで、「死」との向き合い方についてお話していただき、ホスピスで2000名以上の人を看取られている柏木哲夫先生には、「二つの中心」ということで、ホスピスの心と緩和医療学のバランスの重要性についてお話していただいた。河野先生が中心となっているサイコオンコロジー学会と、柏木先生が中心となっている緩和医療学会の総会が合同で開催されたということは、終末期医療における二つの側面の融和ということで象徴的であった。この合同大会の会長をつとめられた阿部薫先生には、「死を考える医療」ということで、これからの医療がいかに死と向き合っていくべきかについてお話をしていただいた。そして、ご自身でもがんを経験された竹中文良先生には、「がん死を自然死として認める」ということで、がんとの理想的なつき合い方についてお話していただいた。4人の先生方へのインタビューを通じて「死」を深く考えることができたのは、若い私にとって、実に貴重なものであった。
「今までは人間の寿命を延ばしていたが、これからはその期間に命を付け加えるべきだ」(ハワード・ラスク)という言葉に象徴されるように、延命至上医療の反省から始まった終末期医療であるが、ここにきて、第二の変革期を迎えているようである。合同大会では、ケアの個別化の重要性が確認される一方で、「緩和ケアの標準化」や「Evidence-based medicine」が大きく取り上げられていたが、この第二の変革期では、第一の変革期で試みられた「理想的な終末期医療」が、現実の世界へ広がろうとしている。東大病院での緩和ケアのあり方について中川恵一先生に報告していただいたが、第二の変革期では、このような取り組みが大学病院を含め、多くの病院・診療所で行われるべきだろう。年間100万人以上が亡くなる時代を迎えようとしている今、より多くの人がよい死を迎えられる環境をつくるために「医」が取り組むべき課題は山積している。
東大放射線科の青木幸昌先生は、「ターミナルの患者すべてに死のパラダイムの変革を求めるのは酷だ。多くの人にとって、死はやはり怖いのであって、この現実のパラダイムの中で終末期医療を考えるのがこれからの方向性だ」と言う。私の「序論」などはまさに理想的な「向こう側のパラダイム」を論じたものであるが、これをいかに現実のパラダイムに還元していくかが課題になるだろう。今後、医師として死の現実を見つめながら、この問題をさらに考えていきたいと思う。

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