<2-7-10> 鉄門だより(520)1997年2月号
  エッセー「科学と人間」
  ◆「花はなぜ咲くのか?」
桜の花が一斉に咲き乱れ、風が桜色に染まるこの春の日に、ふとそんなことを考えてみる。この問いに対して科学が用意する答えは、「花とは要するに受粉の場であって、花の目立つ色や形は、種の保存に有利に働いている」といったところであろうか。ドーキンス風に言えば、「利己的遺伝子が、自己の生き残りのために、花という見栄えのいい乗り物をつくった」となるかもしれない。しかし、あの花の美しさが「種」とか「遺伝子」とかのレベルで語られるのはなんとも味気ないではないか。
◆細川宏先生の詩にはこうある。
◎汝はたして何者なれば
 いかにして
 はたなにゆえに
 かくも美わしき花を
       咲かすなる
 私はただ
 内に溢れる大地の情感を
 そのままだまって空間に
 放ち展げてやるだけです
 (ヒヤシンス)
◎一輪のバラにあらわれる
      表情の流転は
 そのまま宇宙の生命の
 美と聖の表情の
     凝集であろうか
 (バラの表情)
◆一輪の花に「大地の情感」や「宇宙の生命」を感じたこの科学者の豊かな感性―――。いまの科学にはそれが欠けてはいないだろうか。科学は感性、主観、意味といったものを排除し、客観性、普遍性を崇めたてることで世界の共通言語たることを目指しているわけだが、そのような原則に基づいて築かれた概念が人間の日常生活に馴染むとは私には思えない。「花はなぜ咲くのか?」という問いに、「恋人たちの語らいを静かに見守るため」とか「病める人の心を慰めるため」とか答えて何がいけないのか。いくら「非科学的」であろうと、そう信じる人がいれば、その人にとって、それが真実である。今日も上野公園の桜吹雪の中で繰り広げられている人間模様に、科学の分析は必要ない。
◆科学が人間の外側に独自の世界を築き始めて以来、人々の日常感覚との間の乖離は深まる一方である。多くの人々は、自分の生活が科学技術の恩恵を受けて成り立っていることを理解していながら、「科学」に対して「ブラックボックスの中で得体の知れない人間がやっているわけのわからないこと」というイメージを抱いているのではないだろうか。「クローン羊」の話題で、「アドルフ・ヒトラーのクローンができるなんて考えたらぞっとしますね」なんてことを言っていた評論家がいたが、実際、多くの人にとって、「本当の科学」よりもSFの方が日常感覚にフィットしているのだろう。クローン技術については、きちんと議論すべき倫理問題があるにもかかわらず、多くの人々にはそういう肝心なことは伝わっていないのである。ヒトラー・クローンという戯画が登場し、「遺伝子ですべては決まる」という誤ったイメージが広がることで、迷えるクローン子羊は、さまよい続けることを余儀なくされている。嗚呼、哀れなstray clone, stray science. 
◆迷えるサイエンスよ、僕らの日常生活へお戻りなさい。今は「生命倫理」「自己決定権」がお茶の間でも話題になる時代。遠い世界をさまようのではなく、美しい花が咲き、人々が微笑みを交わすこの日常空間に、本当の姿をさらし、本音で僕らに語りかけなさい――。
 ◇  ◇  ◇  ◇
◆「花はなぜ咲くのか?」なんてことを書いて、「鉄門だよりのあるべき姿」とこの編集後記との乖離も気になるところであるが、それはさておいて、話をもう少しだけ進めてみたい。花の次は人間である。
◆「人間はなぜ存在するのか?」「人間とは何か?」―――このレベルになると、味気があるとかないとかいうだけではすまなくなってくる。この問いに取り組むべき科学は、人間科学の老舗たる医学であろうが、今の医学がこの問いに正面から向き合っているとは思えない。「あなたはだれ?」という手紙から始まる「ソフィーの世界」がベストセラーになったときにも、医学とはまったく別の話だと見向きもしなかった人が多いと思うが、「医学」というのは本来「わたし」や「あなた」がうごめいている学問分野であり、「あなたはだれ?」というのは、医者が真正面からつきつけられる問いであると私は思う。医者と患者の「わたし」「あなた」が消し去られ、医学が、迷えるサイエンスと同じく中空をさまようのは、なんとも悲しいことである。今こそ、人間の存在を中心に見据えた医学の確立が必要であり、今後、「人間医学」から多くのものが産み出されるのだと、私は信じている。「人間とは何か?」という問いに答えはない。もし、これに唯一客観的な解答があるとしたら、むしろ恐ろしいことである。医学に求められているのは、答えのないこの問いに真摯に向き合い、一歩一歩足を踏みしめながら、果てしない道を進むことであろう。花の美しさに心を奪われるように、人間存在の素晴らしさを日々発見しながら、それを基盤に豊かな医学を築いていきたいと思う。
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