<2-7-8> 鉄門だより(514)1996年1月号−2月号
21世紀の「医」を考える 第2回「『医』と『人間・文化』
 

中川米造氏インタビュー

中川米造氏は、1926年生まれで、京都大学医学部を卒業後、大阪大学医学部教授などを経て、現在、仏教大学教授、大阪大学名誉教授となられている。専門は医学史、医学哲学で、生命倫理や医学教育など幅広い分野で発言をされている。「医の倫理」、「医学の弁明」、「医療の原点」(岩波書店)など著書も多数ある 。

 

―――日本の医学教育の特徴は何でしょうか。

日本の近代的な医学教育というのはドイツから伝わった。東大に医学を教えにやってきた最初の教授はミュラーとホフマンという軍医だった。士農工商の名残で、商人ではなく侍を、ということだったらしい。だから、日本にはドイツの軍医システムが入ってきたわけで、医者というのをやたらと権威づける。軍隊では医者が将校で患者は兵隊。日本の診察室の医者と患者の椅子の差というのは、それをそのまま象徴している。「ありがとう」というのは商人の言葉だから、医者は患者にありがとうと言わず、ただ権威的な態度で「診てやる」だけ。「おれがやることが医学である」という感じで、「朕は国家なり」というのと同じ。科学というのは相対的にとどまらなければ進歩はないが、日本の医学は権威主義と結びつくことで突然神様になってしまった。

―――日本ではサイエンスとしての医学が重視されていますね。

国際的な図書分類では、医学(medicine)は、engineering、agricultureと同じく「技術学(technology)」に分類されているが、日本の図書分類では医学は自然科学の一分野になっていて、自然科学の「医学」を社会的に応用したのが医療だという考え方が根づいている。自然科学というのは、産業への奉仕としてもてはやされてきたもので、たくさんつくってもうけるということに主眼が置かれていた。だから、そういう医学の中に倫理はない。細胞の中をいくら探したって、「倫理」という物質はない。
外国ではmedicineはテクノロジーであり、社会の中にあって社会とつながっているので、人間科学としての医学が発達し、医療人類学、医療経済学、医療社会学、医学哲学、医療と宗教、医療と政治などがよく研究されている。ところが、日本の医学は、人々の「生業」にはなりえず、崇高なものとして象牙の塔の中にある。日本初の医事法制である明治初期の「医制」に書かれているのは、医学教育のことばかりで、医療のことはほとんど書かれていない。医学校があって、それを出たら何でも好きなようにやりなさい、ということ。日本人はやたらと「医学博 m」になって「学問」をやりたがる傾向があって、医療の実践を中心に考える人は少ない。clinical professor(臨床教授)の話が出ても、「あいつら学問ができないから」と言って認められてこなかった。「医学あって医療なし」というのは今に始まったことではない。

―――自然科学の医学には、人間に対する視点が欠けているということでしょうか。

日本でも工学部や農学部は社会の動きに敏感で、安全工学といったものがあるが、医学部では、人間を相手にしていながら、あまり安全ということを言わない。マイナーな事故が何回起きると1回大事故が起きる、という法則があり、安全性を追求するには、マイナーな事故を集めていくことが重要なのだが、医療の世界では、失敗はありえないという顔をしなければいけないから、マイナーな失敗を隠し、その結果大事故になってしまう。薬の副作用も多くは隠される。スモン薬害のとき、キノホルムの治験の報告書には「認むべき副作用はなかった」とあるが、ある病院のカルテの記録には、目が見えなくなったとか、足がしびれたとかいう記載がある。事実を事実として報告していない。

―――倫理教育はいかにあるべきでしょうか

近代ヨーロッパでは、まず社会が病院を作って、そこに開業医がやってきて、患者さんの面倒を見るようになり、「あそこにいけば偉い人の診療が見られる」というので若い医者が集まるようになって、病院附属医学校ができた。ところが、日本の場合は、まず医学校ができて、附属病院ができた。学問が先だから倫理教育をやる土壌はない。人間は、集団の中で違和感のないように動く特性があるから、「自然科学」的な動きをしているところで、倫理性は生まれない。だから、日本の大学で倫理教育をやるのは非常に難しい。そもそも、倫理というのは、日常的な診療の中で患者にどういう態度を示すべきか、ということであって、講義でどうこうなるものじゃない。
60年代にエロンという人が、アメリカの医学生というのは入学したときが一番ヒューマニタリアンだが、教育を受けているうちにおかしくなっていって、卒業時にはシニカルになっている、という報告をした。これが全米で問題になって教育改革が行われたが、日本ではどうか。

―――これからの医療は「サービス」だとよく言われますが、どう思われますか。

アメリカの医者は扉を開けて患者さんを呼び込むが、日本はカルテだけ見て顔も見ない。それであの椅子。患者はお客さんではなく「対象」でしかない。大阪に、人間ドッグと、会社の検診所と、普通の診療所が入っているビルがあるが、ここの患者は、診療所だと「○○さん」検診だと「住友の人!」「東芝の人!」、人間ドッグだと「○○様」と呼ばれる。これからは、普通の病院でもサービスマインドがあった方がいい。大阪大学病院では、患者係を「病客係」と呼ぶ。それだけでサービスがよくなるというわけではないけど。

―――東大理・の入試に面接が導入されますが、どう思われますか。

面接についてはよくアドバイスを求められる。「なんで医学部受けましたか」なんてありふれた質問だったら、予備校でちゃんと模範解答を作っているから、聞いてもしょうがない。むしろ、「医学部に通らなかったときに、あなたは何をしますか?」と聞いた方がいい。人間相手の仕事が好きかどうかというのはそれでわかる。それから、入試では、これまでの人生で何をやってきたのか、というのも評価した方がいい。ドイツでは高校時代に1ヶ月くらい、病院で無資格者で働いて、病院長から推薦をもらわないと試験を受けられない。北欧では入学してから6ヶ月くらい、施設で働く。
最近は、少子化が進んで、受験時代には人との交際が少なく、人とのつき合い方がわからない人が多くなっている気がする。人間関係の仕事にとって、人嫌いというのは致命的。患者さんは自分との対話ができなくなり、助けてもらいたいと思ってやってくるのだから、援助者の方が打ち解けて、引っぱり込むようでないといけない。医者の適性を見極めるのは重要な問題だ。

―――医師-患者関係というのはいかにあるべきでしょうか。

病気というのは、自分と体との関係が不調和になっていることで、体ときちんとコミュニケーションできたら、病気と共存できる。慢性の病気というのはまさにそういうもの。自分とコミュニケーションができないから、医者のところへくるわけだが、体のことだけしかみないのでは問題は解決せず、ずっと依存関係だけがつながっていく。医療というのは人間関係であり、人間関係の基礎はコミュニケーションである。コミュニケーションというのは、他人とのコミュニケーションだけではなく、自分とのコミュニケーションというのもある。病むということ、死ということを前にしたとき、自分の心と体のコミュニケーションが重要になる。心の基本は、いろいろな事象や人々を結びつけながら組織していくもの。そういう心を開放して、自分の体と対話できるようにしてあげることが、癒しであり、医療の基本である。自然科学としての医学というのは、コミュニケーションのごく一部で、それがすべての医療にかわるわけではない。プラセボだけで3割治ることがあるというのだから、そういう側面をもっと重視すべきだ。
患者とのコミュニケーションについては、世界各地でシステマティックな訓練が考えられている。今までの医療では、医者が質問して患者に答えさせ、「気にしなさんな」と言っておしまい。そうではなくて、相手にしゃべらせるのが重要。うなずいたり、顔を前へ出したりして、"active listening"する。相手の言ったことを繰り返し、その要点をまとめて言い、相手の感情を読みとる。ハーバードでは、「ペンを持ってはいかん」と言う。最初はとにかく話を聞き、2度目にはじめてメモをとる。

―――「医」と人間のかかわりはいかにあるべきでしょうか。

最近、複雑系という概念が出てきたが、人間的な成熟というのは、複雑性がわかることであり、要素や部分を知っていたって何にもならない。一つ一つの細胞の専門家が集まったところで、全体の人間はわからない。人間を理解するためのキーワードというのは、個体性、相互作用、歴史性、意味であり、これらを無視する近代科学は医療の基礎にはなりえない。医療にあたる者も、医療をうける者も人間なのだから、医療の基礎は、病む者と癒す者との間の人間関係に置くべきである。

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