<2-7-7> 鉄門だより(514)1996年1月号−2月号
21世紀の「医」を考える 第2回「『医』と『人間・文化』
 

森毅氏インタビュー

森毅氏は、昭和3年生まれで、東京大学理学部数学科を卒業後、京都大学教授などを経て、現在京都大学名誉教授、自称「フリーター」である。「数学の歴史」(講談社学術文庫)、「エエカゲンが面白い」(ちくま文庫)、「寄り道して考える」(PHP研究所、養老孟司氏との対談)など数多くの著書がある。「エエカゲン」を標榜していらっしゃるが、幅広い教養に裏打ちされた人間や文化についての洞察は実に鋭い 。

 

―――「お医者さん」のあるべき姿についてどう思われますか。

医学部というと理系エリートということになってるけど、理系エリートだけじゃつまらないよね。昔は文芸部とか演劇部とかの文系サークルは医学部でもっていたし、お医者さんというと、町の文化人・教養人であって、音楽でも文学でも、何でも話が通じるというのがお医者さんの一つの理想であった。僕の同年代では文化人化している医者が多いよ。加賀乙彦さんとか、中井久夫さんとかね。ただ、手塚治虫や安部公房に病気みてもらおうとは思わへんかったけどね。まあ、昔はそういう存在が出やすかったわけやけど、今は文化的豊かさみたいなものはなくなりつつあるよね。
患者の立場から言うと、お医者さんにはあまり「健康の専門家」になってほしくないと思う。病院に行くと、「健康にさせられる」という強迫観念があるが、一生病院から出られない人もいるわけで、病院というのは、不健康な人間が気持ちよく過ごせるところであってほしい。

―――大学教授像についてどう思われますか。

「俺なあ、体が悪いときは治してほしいと思うわ。そやけど、治してさえくれたらニセ医者でもかまへんのや。京大教授なんかでいつまでも治らんのはかなわん」と言うたことがある。世間は医学部の教授を偉いと思いすぎる。年をとると、雰囲気をよむ能力は高まってくるけど、実際勉強するのは30代40代なんやから。
全共闘時代までの「信頼」というのは、「あの教授の言うことなら絶対正しい」「医者の言うことに間違いはない」というものだった。ところが最近は、医者が患者の前で「これ何やろ、わからんな」と気楽に議論するようになっている。そういうのがこれからの信頼のあり方なんちゃうかな。学生の前で平気な顔して「わからんな、間違えた、困ったな」と言ってしまうような教授の方が、かえって学生から信頼される。権威を守ろうとせずに、判断は相手に任せればいい。教授がいろいろ考えて結論に至っても、教授が賢くなるだけで、学生は賢くならない。それだったら何のための大学か。医療でも、お医者さんだけ賢くなるんやなくて、患者さんが賢くなるべき。自分の体のことなんやからね。昔、患者の前で大先生が若い先生に、注射の指示をするときに、ドイツ語で「痛ければ何でもいい」と言っていたのを聞いたことがあるけど、今はそういう時代ではない。患者が悪擦れしていくというのがこれからの方向性やね

―――最近よくインフォームドコンセントと言いますが、今でも、上から下へインフォームしてコンセントさせるという感じで、古い医師-患者関係が残っていると思うのですが。

今でも患者に薬を聞かれるとむっとする先生がいるっていうね。でも、この前知り合いの医者にかかった時、「最近あんたと同じようなこというてやってくる患者さんがおってな、よくわからへんけど、しょうがないからこの薬出してんのやけど、大方機嫌よくなってるし、あんたも飲まへん?」って言われた。なんか、そういう方が信頼できると思わへん?大きな流れとして、医療はそういう方向に向かっている。医者としては、患者さんの全部の判断を自分で背負わなくていいわけだから、ある意味では気楽だけど、そこで人間的な医師-患者関係が出てきて、医者の文化度が重要になってくる。

―――学問の枠組みについてどうお考えですか?

僕は理系離れというのはそんなに心配してないけど、理系は理系、文系は文系といって一個ずつになっているのが心配やね。理系の人に文系的感覚がなくなって、文系の人に理系的感覚がなくなったらものすごい困る。河合隼雄さんはもともと数学で心理学をやってるし、中井久夫さんはもともと法学部で精神医学をやってるし、そういうのがあった方がいい。東大医学部でいえば、多田富雄さんと養老孟司さんというのは二大スターやな。それに比べて最近の人は、理系なら理系というように、スタイルにはまりすぎている。枠の中でどう生きるかを追求するだけで、枠から外れたり、枠の外にネットワークを広げたりするのが下手になっている。サークルでも医学部だけで集まる傾向が強くなってるようやし。閉鎖集団はある意味では楽だが、ええことではない。
枠にはまっているといえば、オウム真理教も同じ。魂が力を持つとかいうオウムの科学は、ニュートン力学的世界像の枠を出ていない。「世界のエントロピーは」とか「24次元空間がありまして」と言ったらかっこええと思うけど、既成科学にとらわれていては未来性なんてない。
大学教授はいつも後継者選びばかりやってるけど、学問の後継者って小粒になることよ。新しいことが出てこなければ意味がない。実際、面白い人というのは、誰の後継者でもないし、医学のシステムで作り出されたわけでもない。この先何が起こるかわからないんやから、レールが先まで伸びてるのは面白くない。今後、システム過剰になっていく中で、魅力的な教授というのは出にくくなってくるか、あるいは、全く違う、予想できないタイプで出てくる。

―――今後の科学研究はどうなるでしょうか。

僕の学生時代に比べて、研究者数、論文数、雑誌数すべてが一桁か二桁あがっている。この50年で。あと50年でもう一桁あがるとしたら、破綻するに決まってるよ。救いは、忘れられることやな。捨てていかなければ、東京は図書館の町になる。墓は壊れていくから助かるんで、そうやないと、地球上全部墓場でうまってしまう。
僕が学生の頃DNAというのは聞いたことがなかった。ウイルスというのも「生物か鉱物かわからんようなけったいなものがあるで」という感じだった。地球は動いているらしいで、というのはあったけど、ビッグバンなんてなかった。湯川秀樹さんがけったいなものをみつけたで、というのはあったけど、クォークなんてなかった。今の常識的な枠組みになっているのはほとんどがこの50年で出たもの。ということは、50年後には今わかっていないことがどっと出てくるはず。

―――最近の学生についてどう思われますか。

学力というのには、「システム的学力」と「ネットワーク的学力」というのがある。30年くらい前に環境問題がよく言われるようになったけど、当時は、授業やテキストで「環境学」が身に付くという時代ではなかった。喫茶店でそういう話が話題になって、知っている人が話を持ってきて、ネットワークを広げていくという感じで学生たちは学んでいた。「システム」は、かっしりと「身に付ける」ものやけど、「ネットワーク」は個人的で壊れやすく、「あなたがこの人に会ったから」という感じで偶然的に広がっていく。最近は、「システム的学力」の要求が高まりすぎて、学生の「ネットワーク的学力」は衰えていると思う。両方とも必要なんやけど。お医者さんが町の文化人だったのは、両方の学力を備えていたからだと思う。「ネットワークの中で『医学感覚』がどう活きてくるのか」というのが重要なんちゃうかな。

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