<2-7-6> 鉄門だより(514)1996年1月号−2月号
21世紀の「医」を考える 第2回「『医』と『人間・文化』
 

河合隼雄氏インタビュー

河合隼雄氏は、昭和3年生まれで、京都大学理学部数学科を卒業後、臨床心理学に転じ、昭和40年にユング研究所において、日本人として初めてユング派精神分析家の資格を取得された。京都大学教育学部教授、国際日本文化研究センター教授などを経て、現在、京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター所長。臨床心理士として診療にあたられるとともに、「無意識の構造」(中公新書)、「宗教と科学の接点」「生と死の接点」(岩波書店)など数多くの本を著し、人間や文化に関して幅広い発言をされている 。

 

―――医学教育、医療の現場では、細分化・専門化が進み、サイエンスとしての医学が重視されて、「人間」が軽視されているように思います。その一方で、ターミナルケアの問題や生命倫理に関する話題が世間で広く論議されるようになり、「人間」への関心が高まってきています。この二つの動きがあると思うのですが、先生は、「人間」と「医」の関わりはどのようになるとお考えでしょうか。

「人体を客観的に研究する」という医学の方法は、ひとつの確立された方法であり、成果も上げてます。ところが、医療の場合は、どうしても「人間」を相手にしなければならないので、方法論が医学とは違ってきます。医学の方法論がより正しく、他のものが間違っているという考え方があるのは問題です。近代医学は強力なアプローチであり、それを用いて医療を行うことは確かに重要ですが、医療を行うときは人間全体を相手にするという視点を欠いてはなりません。人間全体というのは、不可解極まりなく、近代医学では理解できないようなことが起こるわけです。近代医学で理解できないからといって、偶然だとか、おかしいとか言うのは誤りです。私は、そういうことを含めた包括的な医療というものを考える学問、いわば「医療学」というのが、「医学」と同じくらい必要になってくると思っています。教授になるためには「医療」より「医学」ができなければならないので、医療のことを知らない教授が医療を教えるという不思議なことが起きています。医療学というのは、「人間を全体としてとらえる」ということと、「医者と患者の関係を重要視する」という点が医学と違います。今後、近代医学では治せない病気が増えてくる中で、そういうことをきちんと考えなければいけないと思います。
また、医学教育についてですが、医者は医学的なことを知らないと話にならないので、はじめに医学のしっかりした方法論や態度を身につけることは必要です。ただ、京大総長の井村先生が「医学教育は難しい。最初に教えたことと違うことを次に教えなければならないのだから」とおっしゃるように、医学生は、最初に客観的なことを身につけたあとで、臨床現場で全く違うことを習わなければなりません。今の医学教育では客観的な「医学」に偏りすぎている気もします。医学で理解できないことを否定するようになってしまうのは困ったことです 。

―――先生の書かれた「ユング心理学と仏教」(岩波書店)の中に引用されているユングの言葉でこういうのがあります。「治療者は、もはや患者にまさる賢者として、判定したり相談したりするのではなく、まさに一個の協同者として、個性発展の過程のなかに、患者と共に深く関与してゆくものである」「治療は、患者と治療者の全人格が演ずる相互作用以外の何ものでもない」。これは臨床心理学の場面での話だと思うのですが、これからは一般の内科、外科などの診療でもこういった考えを取り入れることが重要になってくるのではないでしょうか。

確かに、医療はどうしても心のことを考えざるを得なくなってきています。しかし、臨床心理学やそれに基づく診療というのは、医学とは別のものであって、それを行うのは言うほど簡単なことではありません。やろうと思えばそれなりの訓練が必要です。心の問題は中途半端にやるのはよくないので、臨床心理士との分業にするか、特におできになる方が両方きちんとやるか、ということになると思います。

―――パターナリズムの考え方で固まっている医者が多い中で、少なくとも、対等な立場を目指す心構えは必要だと思うのですが。

だんだんそういうようなことになっていくと思います。また、日本の場合はパターナリズムでやっているように思っていても、実はマターナリズムであるというような人もいるわけで、そういった関係のあり方というのもきちんと研究する必要があると思っています。

―――臨床心理士の日本でのあり方はどうなるでしょうか。

アメリカ人で日本の医療を研究している人がいて、日本人というのは心を大事にするというイメージがあるのに、臨床心理士が認められていないというのは、どういうことか、と聞かれたことがあります。日本人は「あいまいなままの心」を大事にするので、職業としてそれを取り扱う必要はなかったが、これからは必要になってくるはずだ、と答えました。これだけ西洋の文化が入り、医学も近代化したのだから、心もある程度はっきりさせる必要があります。これまではあいまいなままでうまくいっていましたが、これからはそうはいかなくなってきます。

―――日本人の「あいまいさ」というと、死生観にも現れています。「生と死の様式」(誠信書房)で、先生は、「人間の死」について「科学の知」は多くのことを提供するが、それは「私の死」とは別のことであり、日本人は「科学の知」と「私の死」をあいまいに併存させている、と書いてらっしゃいますね。

あいまいなものをどの程度明確にするべきなのか、明確にしないべきなのか、というのは、脳死の問題も含めてものすごく重要なところです。キリスト教文化圏では割り切った考え方をしますが、日本ではそう簡単にはできません。日本的あいまいさはよさも持っているわけで、今急激に脳死を制度化してしまうべきではないのかもしれません。

―――医療現場では、死にゆく人がいる現状でそんなことは言っていられない、という声をよく聞くのですが。

柳田邦男さんの「犠牲」では、脳死状態の息子との11日間の意味ある関係が描かれているわけで、脳死が死であると決められるとそれがなくなるのだと考えるととても難しい問題です。機能的にみたら、生き返ってこないわけだから脳死は死だと言っていいわけですが、人間関係とか、「2人称の死」とかでは、そうは言い切れないわけです。臓器移植自体は問題はないでしょうが、医者は何でも知っているのだからといって主導権を握り、本人や家族の尊厳を傷つけるのはよくありません。もし制度を作るのであれば、きめの細かいことまで決める必要があります。

―――ターミナルで、積極的治療を望むか、積極的治療を受けずに静かに亡くなるか、といように価値観が多様化している中で、その価値観を重視することが重要になってくると思うのですが。

そうですね。本人や家族の意思とか、みんな勘案しなければならないので、非常に難しいと思います。数値的に出るのであれば、すぐに判断ができますが。「ああすればこうなる」と。「人間」を相手にする場合はそうはいきません。個人個人は違うのだから、全部平均化した方法でやるというのはいけないことなんですよね。難しいですよ。

―――先生は数学ご出身でらっしゃいますね。理系と文系といったものの境界について先生はどうお考えですか。

文科系の人はもっと理科系のことを知るべきだと思います。たとえば、自分が哲学者だと言っても、生物学がどれくらい進んでいるかだいたいわかっていなければ、「いかに生きるか」なんてことは語れないはずです。物理学では、「複雑系」というのがでてきて、リニアー(線形)な方法を組み合わせて研究する古い近代科学の方法論からの脱却が進んでいますが、人間というのはまさに複雑系なので、心理学や医学も近代科学の方法論にしがみつくのではなく、パラダイムを変えていく必要があります。そのためには、文科系の人が理科系のことをよく知り、理科系の人が文科系のことをよく知っている必要があります。私が所長をしている国際日本文化研究センターには、理科系や文科系のいろいろな人がいて、学際的な研究をしています。大学というのは広く勉強できる場であるべきで、医学部の学生も、医学の勉強に追われるだけでなく、他のことをいろいろやってみる方がいいのではないでしょうか。

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