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<2-7-5> | 鉄門だより(514)1996年1月号−2月号 21世紀の「医」を考える 第2回「『医』と『人間・文化』」 |
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序論 | ||
「私は自分の能力と判断に従って患者の利益に合致するように処方する。私は患者を加害と不正から守る」とヒポクラテスが誓ったとされるのは、紀元前400年頃である。ヒポクラテスはギリシャ・エーゲ海のコス島の巡回医師で、コスの町に現存するプラタナスの木の下で医学を教えていたと伝えられている。現在、医学図書館前に大きなプラタナスの木が枝を広げているが、これは、その「ヒポクラテスのプラタナス」の種子から育ったものである。医学図書館の玄関にたたずむ銅像のヒポクラテスは、2400年の時代を経て様変わりした医のあり方をいかに見つめているのであろうか。 今回の「21世紀の『医』を考える」では、医学・医療の本質でありながら、とかく見落とされがちな「人間」という視点について、そして、「医」と「人間」を大きく取り囲んでいる「文化」について注目してみた。 ◆「医」と「人間」 「医学の使命は病気を治すことではなく病人を治すことである。否、病人のみが彼らの対象ではない。生、老、病、死に悩む人間の伴侶たることこそ、医者たるものの使命であり矜(ほこり)である。医者は単なる科学者であってはならない。仁者でなければならない。」 故・細川宏先生(昭20卒、元東大解剖学教授)は次のような詩を遺されている。 医学・医療は常に変化しており、今後も加速的に変化していくと思われるが、「医」の主体と目的が「人間」にあるという点は変わることはなく、「人間」へのまなざしのあり方は今後も重要な問題であり続けるだろう。銅像となって世界各国の医学校や病院を見つめている2400年前の一人の医師が、そのことを無言のうちに語っている。近代において「人間性」を無視することで急速に発達した医学であるが、近年は「人間への回帰」の必要性が声高に叫ばれるようになってきた。21世紀の「人間の時代」において「医」が具体的にどのような道を進むべきなのか、さらに考え続ける必要があるだろう。「人間の、人間による、人間のための『医』は、けっして地上から滅びることはない」という「人間解放宣言」が、21世紀の「医」の世界で待ち望まれている。 ◆「医」という「文化」 免疫学者の多田富雄先生は、「間が抜ける」「間違い」「間合い」「人間」「世間」「仲間」など日本語に多く登場する「間」を、「日本人の本質的な規範」と捉え、「自分と他人の間に、断絶状態としての間隙をはさむのではなくて、そこに『間』と称すべき積極的な関係を相互に作り出す」ということを日本文化の特徴として挙げている。 ◆「文化」の中の「医」 ミシェル・フーコーは、著書「臨床医学の誕生」で、ヒポクラテス以来延々と引き継がれてきた医学が近代の臨床医学となるための歴史的な条件を考察し、18世紀末〜19世紀初めのヨーロッパの社会変化が医師の「まなざし」の変化をもたらしたことを鮮やかに示している。フーコーの論じる「まなざし」の変化の契機のひとつは「死」である。屍体を解剖することで、それまで生体の深みにおいて不可視であったものがまなざしの光のもとにもたらされ、「死のまなざし」が獲得された。そして、このまなざしによって、「生・病・死」が同一空間でとらえられるようになり(「死は、病の源泉であり、生命に内在する可能性である」)、また、個人を対象とする科学の可能性がもたらされたのである。個人が主体であると同時に客体でありうるという「人間学的構造」は、人間の有限性にポジティブな力が賦与されることで出現したが、それを基礎とする医学は、有限性(死)の充実した形に語りかけることになるのである。 フーコーの「まなざし」は実に示唆に富んでいるが、現代日本における社会や文化の変化は「医」のまなざしにいかなる影響を及ぼしているのだろうか。「臨床医学の誕生」では、生体の深みにまなざしが到達することが大きな意味を持ったことが指摘されているが、現代の医師のまなざしは、医療技術や医学の発達の影響を受けた結果、「生体の深み」を突き抜けて、まったく別のところに注がれているようにも思える。養老孟司先生(昭37卒)は、計量可能、論理化可能で、予測され統御される客観的な身体を「人工身体」と呼び、予測と統御ができない「自然身体」と区別しているが、現代の医のまなざしの見るものは、もっぱらこの「人工身体」である。病院においては身体は徹底的に数値化され、医師はその数値を見て身体を捉える。CTやMRIの画像は「まなざし」に大きな影響を与えたものであるが、これすらも数値をコンピュータで処理して画像化したものである。患者を前にしていても、医師の眼は検査値や画像、コンピュータ画面に向けられていることが多く、そのまなざしは、「生老病死」という予測不能、統御不能なものを抱えた、かけがえのない「自然身体」を巧妙に避けている。患者が亡くなることを「ステる」という隠語で語る現代の医師にとって、「死」は人工身体の機能停止という客観的事実にすぎないのであろう。「人工身体」は現代社会のシステム運営上の要請に合致したものであり、人間の思考が社会や歴史によって規定されているとするフーコーの考えはここにもあてはまると言えるが、現代の「医」を取り囲む文化・社会が要請しているものはそれだけにはとどまらないはずである。文化・社会の中にうごめく「かけがえのない」人間たちと「医」の関係については、これから社会全体で考えていく必要がある。 日本外科学会名誉会長の井口潔先生は、現代の「科学技術文明時代」は、科学と文化を分離させたことで人類の危機を引き起こしつつあり、21世紀には「科学文化調和時代」に移行させなければならない、と言っている。科学の中でも特に文化と密接なつながりをもつ医学は、積極的に文化との調和を求めていく必要がある。脳死・臓器移植、遺伝子操作など、今や「医」の問題は全社会に開かれており、「医」に関する議論は当然それを踏まえて行われなければならない。「クローン羊」がセンセーショナルに取り上げられるのには理由があるのである。21世紀においては、ますます、「『文化』の中の『医』」という位置づけが重要になるわけで、医療従事者が「『医』の中の蛙」となってしまうことはけっして許されない。 ◆まとめ 今回の「21世紀の『医』を考える」では、このような奥深いテーマを設定し、心理学者の河合隼雄先生、数学者の森毅先生、神戸大学精神神経科教授の中井久夫先生、大阪大学名誉教授の中川米造先生という、幅広い分野で活躍されている4人の先生にインタビューをさせていただいた。四者四様の人間観、文化観に触れることができ、実に興味深いインタビューとなった。先生方が挙げられた「21世紀の『医』のキーワード」は、河合先生が「人体から人間へ」、森先生が「システムからネットワークへ」、中井先生が「医療は科学を超えたところから始まる」、中川先生が「医療は人間関係である」であり、近代科学の方法論から人間・人間関係への移行という流れはここにも読みとることができる。 |
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