<2-7-1> 鉄門だより(514)1996年7・8月号
21世紀の「医」を考える 第1回「学問の枠をこえて」
  序論
  20世紀は激動の時代であった。2回の世界大戦とその後の冷戦により世界の構造は激しく変化し、冷戦後の今は新しい秩序への模索が続いている。科学技術は原子力、コンピュータ、遺伝子工学など人類に大きな影響を与えるものを次々と産み出して社会に恩恵を与える一方で、環境破壊、科学倫理などの問題を引き起こしてきた。世界の人口は今世紀に入って爆発的に増加し、人口問題は深刻さを増してきている。このような時代背景を踏まえて、まもなく訪れる21世紀に人類のとるべき道を考えるとき、われわれが今後直面するであろう問題の多さには慄然とするものがある。20世紀末の今、大きなパラダイムシフトが起きていると言われるこの時代に、われわれは何をするべきなのだろうか、何を目指すべきなのだろうか。世界が混沌の様相を呈しているこの瞬間にも、地球は確実に自転を続け、21世紀へとつながる時を着々と刻んでいる。人類が21世紀にも前進を続けるためには、新たな道、明確なビジョンの創出が必要とされているのである。
パラダイムシフトは医学・医療の世界でも例外ではない。「医」は激しい変革の中にあると言ってもいいだろう。例えば、高齢化問題。20世紀の「医」の技術的発達が人間の寿命を延ばし、日本は世界一の長寿国になるとともに、深刻な高齢化社会へと突入した。65歳以上人口の総人口に占める割合は14.1%(1994年総務庁統計局)であり、少子化現象がこれにさらに拍車をかけ、2020年には25.5%に達すると考えられている(厚生省人口問題研究所推計)。また、寝たきりや痴呆により介護を要する老人は現在約130万人おり、2025年には約270万人に達すると考えられている(厚生省推計)。1994年には厚相の私的諮問機関「高齢社会福祉ビジョン懇談会」が「21世紀福祉ビジョン」を発表し、「高齢者向けの公的介護システム作り」と「子育てを社会的に支援する総合的な計画(エンゼルプラン)の策定」を提言した。厚生省が今秋の臨時国会への「介護保険法案」提出を目指しているのは周知の通りである。
近年、生命倫理の問題もクローズアップされてきている。医療技術は、生殖、死、遺伝子に関わるところまで発達し、人類は大きな可能性を手に入れるとともに、大きな責任を負うことにもなった。QOL、インフォームド・コンセント、自己決定権といった言葉が一般にも使われるようになり、人工受精、代理母、脳死、安楽死、尊厳死、ホスピスケア、遺伝子治療などの事柄が、多くの人々に身近に受け止められるようになってきている。しかし、言葉が一般化する一方で、実質的な「生命倫理」が技術の急速な発展に追い付いていないという現状もある。日本の脳死法案はいまだ宙に浮いたままであるし、医学部における「生命倫理」教育はほぼ皆無である。生命倫理上の問題にどう取り組むかというのは21世紀の大きな課題であろう。
「医」の世界の大きなうねりは高齢化、生命倫理の他にもある。医療行政や医療経済について言えば、近年の薬害エイズ問題などがシステムの問題点をさらけ出し、各方面から改革が叫ばれるようになったし、医学部教育に関しては、文部省の「21世紀医学・医療懇談会」が、去る6月13日、「21世紀の命と健康を守る医療人の育成を目指して」と題する第一次報告をまとめ、・筆記試験に偏った医学部入試の見直し、・「臨床教授」制度の導入、・「医の倫理」の徹底、などを提言した。また、東大医学部は、21世紀初頭の東大病院本院と分院の統合と新病院への移行を中心とする将来計画を策定中であり、学部教育・卒後研修なども含めて大きな変革を遂げようとしている。さらに世界に目を転ずれば、発展途上国では今もなお飢餓や感染症に苦しむ人々が絶えず、WHOは、「西暦2000年までにすべての人々に健康を」と題する包括的行動計画(1981年総会で採択)をもとに、「地球上のすべての人々の可能な限り高水準な健康」の実現を目指している。
このように、「医」の21世紀への流れを概観してみたが、「医」が、すべての人間がほぼ共通に体験する「生老病死」を扱うものである以上、最後に行き着くのはやはり「人間」ということになろう。これまでの「医」は、様々なシステムの陰で「人間」を軽視する面があったように思えるが、21世紀においては、「医」の主役は「人間」であるべきであり、それを前提としたシステムづくりが必要だと思われる。
鉄門だより96年度編集部では、このような「医」の動きを踏まえて、21世紀の「医」はどこへ行こうとしているのか、21世紀の「医」に携わる人間は何を目指すべきなのか、といったことを考える新シリーズを企画した。題して「21世紀の『医』を考える」である。今後、医学・医療界のみならず、日本全国の様々な立場の方々からお話を伺い、その内容を紙面に提示していくことになる。インタビューをさせていただく方には、まず「21世紀の『医』のキーワード」をお聞きすることにしており、これも興味深いものになるものと期待している。取材・執筆にあたるのが学 カであるということで、到らぬところが多々出てくると思うが、諸先生方から叱咤激励をいただければ幸いである。
第1回の今回は、学問の枠にこだわらず、様々な分野で活動をされている3人の方にインタビューした。東京理科大学生命科学研究所長の多田富雄先生、国際基督教大学教授の村上陽一郎先生、国際日本文化研究センター助手の森岡正博先生である。

(取材・文  高野利利実)
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