パッチ・アダムスは、私が世界でもっとも尊敬する医師、そして、夢を語り合う愛すべき友である。3年前に映画を見て感動し、2年前に本物のパッチと出会って、力強いハグ(抱きしめ)とともに、熱いメッセージを受け取った(本誌の2000年9月号で報告記事を書かせていただいた)。その後も、何度か手紙のやりとりをし、パッチの一つ一つの言葉が、日々のがん医療に取り組む上での大きな励みとなっている。そんなパッチが、再び来日するという。数日間で東京と岡山を往復し、施設訪問、講演会、パーティーを立て続けに行うという忙しいスケジュールであったが、その合間をぬって、念願の対談が実現した。(取材・文 高野利実)
■パッチの理想 医療から世界平和まで
1999年公開の映画「パッチ・アダムス」では、自殺願望で精神病院に入院した18歳(映画での設定はもっと上であったが)から、医学校で現代医療の現実を知り、無料の診療所で新しい形の医療を開始するまでのパッチの姿を、ロビン・ウイリアムスが好演している。医学生パッチが、患者さんへの愛に満ちた医療を実現するため、型破りでユーモラスな方法で医療システムに挑戦していくという痛快なストーリーは、多くの人に笑いと感動をもたらした。
本物のパッチは、今年57歳。彼の言葉を聞き、ぬくもりを肌で感じ、その透き通った瞳で見つめられた人たちは、映画で描かれたものが、パッチの魅力のほんの一部にすぎないことを知る。実際、映画で紹介されたエピソードは、彼が映画制作者に語った1700のエピソードのごく一部であるというし、老婦人がヌードルいっぱいのプールで泳ぐシーンについては、「本物はあんなものじゃないよ」と茶目っ気たっぷりに語ってくれる。もちろん、そういうユーモアだけではない。パッチの真剣な想いと、その行動は、映画をはるかにしのぐ勢いでわれわれの心を揺さぶる。
パッチが医学校を卒業してから31年、夢の病院「ゲズントハイト・インスティテュート」がようやく実現しようとしている。彼の掲げる医療の目標は次のようなものである。
・ 医療を、農業、自然、芸術、演劇、教育、奉仕活動、友情、娯楽などと結びつけて総合的に行う。
・ すべての人々に、最大の健康と幸せを提供する。
・ お金と権力が価値観の基準となっている社会にあって、愛や友情など、人々が忘れかけている本当に大切なものに深い関心を払う。
(パッチ・アダムス著、新谷寿美香訳「パッチ・アダムスと夢の病院」主婦の友社刊より引用、一部改)
実際の病院ができるまでには長い道のりがあったが、その間、パッチの広めた「愛」と「ユーモア」の種は、様々な形で、世界中に芽吹いている。時間がかかったからこそ、ウエストバージニア州に病院を作るということにとどまらず、社会を変えよう、世界を変えよう、というように活動の幅が広がり、結果として、40ヶ国でパッチの理念に基づく活動が行われることになったのである。
彼らの活動は、医療にとどまることはない。「人々が真に健康であるためには、世界が平和でなければいけない」という思いのもと、パッチ率いるクラウン(道化師)一行が、アフガニスタンなどの紛争地域や自然災害にあった地域などに飛んでいっては、愛と希望を届けている。「世界中、笑いは共通だ。笑いが人々を健康にし、世界を平和にする」。
■誰もが幸せになることができる
念願のパッチとの対談を前に、私は、胸を躍らせつつ、パッチに聞きたいことをあれこれと考えた。頭に浮かぶのは、日々接するがんの患者さんたち。がんとともに生きる彼らにとって、幸福とは何なのだろうか。医療はどういう役割を持つべきなのか。私は何をすべきなのだろうか—。
パッチは、“Health is based on
happiness.”(健康であるかどうかは、幸せであるかどうかで決まる)と書いている。病気があろうとなかろうと、誰もが幸せになることができるし、それが本当の意味での「健康」というものである。パッチは本気でそう信じ、世界中に訴えかけている。私も同じ考えで日々の診療に取り組んでいるが、日本の病院にいる患者さんたちと、パッチの言う「幸福」との間には距離があるようにも感じてしまう。「医療は人間の幸福のためにある」と言っても、がんと闘い続け、がんの大きさに一喜一憂している多くの患者さんには、その言葉はあまり響かない。幸福を考えるより前に、がんを小さくするために抗癌剤を投与するのが医者の仕事?---そんなもどかしさがある。パッチと語り合う中で何か糸口がつかめたら、と思った。
「パッチ、日本では、病気自体が不幸であり、病気になることは、幸せになる権利を失うことであるかのような風潮がある。誰もが幸せになれるということを知ってもらうにはどうすればいいんだろう?」
パッチの答えは明快であった。
「まず、君が幸せになることだよ。幸福とは、『1日3回、幸福を服用しなさい』と言って処方するものじゃない。君自身が幸せでなければ、人を幸せにすることはできない。誰もが幸せになれると君が心から信じていなければ、それを実現することはできない。
もう1つ、幸せになるために重要なのは、環境だ。僕は、楽しく、愛に満ちた、創造的な環境で、患者さんたちと過ごしたいと思っている。ゲズントハイトには、庭があり、劇場があり、生活に必要なたくさんのものがあって、仲間たちが幸せを感じながら仕事をすることになる。
僕は、幸せについて知るために、世界中で幸せになっている人たちと語り合った。僕も多くの困難を抱えた人たちを知っているけど、みんな幸せだよ。本もたくさん読んだ。乙武洋匡くんの『五体不満足』も素晴らしい本だね。あの笑顔を見て、彼が不幸だと思う?生きているということは十分に素晴らしいことで、すべての困難を包み込む。どんな状況にあっても、誰もが幸せを見つけることができる。
そして、幸せになるためにすべきは、他人へのケアだ。今の社会では、お金や権力に価値がおかれる傾向があるが、真の価値は、どれくらい愛を与えられるかということにある。ボランティアで介護施設の老人を訪れたり、エレベーターで見知らぬ人と親しく会話したり、楽しいことを人々に広めたり、そういうことで、本当の意味でリッチになれる。お金や権力ではなく、愛こそが、人生に意味を与えてくれるんだ。」
なるほど。では、治らない病気を抱えた人にとっての幸福とはどういうものだろうか?
「もし、残された命が6ヶ月だとする。君は、その6ヶ月間を悲惨に過ごしたい?それとも、祝福に満ちた6ヶ月間を過ごしたい?誰もが後者を選ぶだろう。君は、何千人ものがん患者さんと接していると思うけど、その中にも、幸せそうに見える人はたくさんいるはずだ。そういう患者さんと語り合って、何がその患者さんを幸せにしているかを理解するべきだ。『がんになったら悲しい』という思い込みは捨てなければ。がんになったことで、新しい人生が開けた、本当に大事なものが見えた、という体験談もよく聞く。
僕自身、10代のときに深刻な心の病気を患った。生きるか死ぬかの選択を迫られ、考え抜いて、私は生きることを選んだ。このとき、僕は二つの決心をした。医療において人間性を追求することと、このような苦しい時間を二度と味わわないよう残りの人生を楽むということだ。
がんという病気だって、考え方次第で、扉を開くものにもなりうるし、扉を閉ざすものにもなりうる。誰もが自分の意思で、幸せになることを選択できる。自分の命はあと何日しかないと数えて一日一日を過ごすよりも、『今日も私は生きている』と毎日を祝福して生きた方がいい。」
■現代医療の誤ったイメージ
「溺れる者はわらをもつかむ」ということわざがある。日本ではよく患者さんが「溺れる者」に例えられる。荒波の中で溺れている人が、目の前に一本のわらを見つけたら、それに望みを託してしがみつくというのは当然のことだろう。でも、わらは何本あっても、あまり助けにならず、それに頼りきってしまえば、ますます溺れてしまう。現代医療は、そういうわらを提供しているだけのようにも見える。また、世の中には、高価なわらを患者さんに売りつけるビジネスもたくさん存在している。私には、これが健全な状態であるとは思えない。がんの患者さんが荒波の中にいるというのは事実かもしれないが、だからといって、彼らは溺れているわけではない。困難に直面すること自体は不幸ではなく、どんな状況でも幸せを見つけることができるとパッチは言う。それと同じように、荒波にもまれている人も、溺れているという思い込みを捨て去れば、自分の意思でしっかりと泳いでいくことができるのだと思う。医療はそれをサポートするためにある。
自分の力で泳ぐことができるのに、それを妨げているイメージがある。「病気があることは不幸で、病気がないことが幸福」「治療を受けることは希望で、治療が残されていないことは絶望」「治癒することは勝利で治癒できないことは敗北」---。患者さんたちは、これらの誤ったイメージのために、真の幸福を見失い、果たせぬ「勝利」と「希望」のために、つらい治療を受け続けている。私は、パッチに、そのような悲しい現状を訴えた。
パッチはこう言った。「そういうイメージは、患者さんだけではなく、医者も不幸にしている。誰もがいつかは死ぬというのに、それを敗北と呼ぶなんてばかげている。医療に勝ち負けがあるとしたら、勝利とは、最期まで人生を愛すること。『生きるのは悲惨なことだ、誰も僕を愛してくれない』と嘆かれたとしたら、それは医療の敗北だろう。」
■愛と幸福で満たされる医療を目指して
パッチは、仏教にも造詣が深い。私は、仏教において「四苦」とされる生老病死について聞いてみた。
「僕は、『苦』という表現は好きじゃない。『生きることは苦しみだ』というのは、キリスト教でも仏教でも不満に思う点だ。釈迦やキリストがそう言ったというのは知っているが、その教えを文字通りに解釈するべきではない。僕は、微笑んでいる釈迦が好きだ。十字架に貼り付けたキリストの苦しみをシンボルとするのは理解できない。生きることは苦しみではない。生きることは、笑うこと、キスすること、ハグすること、歌を歌うこと、本を読むこと、アボガドを食べること。
生老病死が自然なことだというのはわかる。そういう自然なことはコントロールできないかもしれない。でも、それを苦しみとするか喜びとするかは、考え方次第だろう。病気や死を克服しようとする行為がビジネスになってしまったのは悲しいことだ。高いお金で薬を買わなくても、幸せを手に入れることはできる。」
■人間本来の美しさを見てほしい
8月30日、パッチは浅草介護老人保健施設を訪れた。入所している方々が一堂に会したホールに、道化師の格好をしたパッチが現れると、まさに奇跡が起こったかのように空気が一変した。パッチは、一人一人の目を見つめて語りかけ、ハグし、時にはテーブルの上に仰向けになって、赤ん坊のふりをして甘えた。ホール全体に笑い声があふれ、無表情だった老婦人も、屈託のない笑顔をみせていた。パッチは、「私の両親はもう亡くなりましたが、今日から皆さんが私の日本での両親です」と挨拶し、アカペラでfly
me to the
moonを歌い上げた。一流のパフォーマンスであるというだけではない。パッチのまなざしは本当の愛に満ちている。言葉は理想論として聞こえるかもしれないが、彼の想いに偽りはないと私は確信した。
そのあとで行われた記者会見では、パッチは、一転して、厳しいメディア批判を展開した。
「新聞やテレビは、苦しみばかりを報道し、人間の美しさを伝えようとはしない。人々に、喜びはまれなことだと思い込ませ、人間性や思いやりの心を忘れさせる。『現実的にはどうか』と質問するよりも前に、人間の美しさを見てほしい」
「米国同時多発テロの起きた同じ日に、世界中で3万5000人の子供が餓死している。最も富める国と言われる米国内でも、5000万人の人が、貧しいからという理由でケアを拒否されている。メディアは、9月11日のことばかりを取り上げ、ブッシュのイラク攻撃を煽り立てているが、なぜ、より多くの命を奪っている貧困に対しては関心を向けないのか」
パッチの優しいまなざしも、暴力・権力・金儲け主義に向けられると鋭く突き刺さっていく。
8月31日に東京で行われた講演会のテーマは、「パッチと語ろう21世紀の介護 〜愛と笑いと歓びを〜」で、パッチは、ケアすることの喜び、思いやりを持つことの喜びについて、会場を埋めた3000人の聴衆に向かって語りかけた。
「介護をしなければいけない」というように考えるから介護が社会問題になる。ケアは自ら望んでするものであり、他人をケアすることは、自分自身にも非常に深い価値を与えてくれるものだ――。
パッチは、こうも言った。「もし日本で、愛と笑いに満ちた病院や施設を作ろうという動きが生まれたら、僕は惜しむことなく、無償でそれに協力したい。」
会場は大きな拍手に包まれた。
2年前、私は、「日本の医療を変えたい」と思った。パッチは、「〜したい」ではなく、「〜する」と言い切るようにボランティアの学生たちに語ったという。なるほど。ならば、こう言い換えよう。「日本の医療を変えるため、私は行動する!」。2回のパッチ来日で人の輪も広がった。日本の医療が、愛と幸福で満たされる日は遠くないはずだ。
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