「もっといい日」

「もっといい日」2000年9月号特別寄稿
パッチ・アダムスが贈る心のメッセージ「愛と友情とユーモアこそ最良の薬」

  

 パッチ・アダムスが日本にやってきた。
 自らを「患者さんを気遣う面白い医者」と称する彼は、赤いつけ鼻とピエロの格好でたくさんの笑いを巻き起こした。
 しかし、彼が短い日本滞在で残したのは「笑い」だけではなかった。
 今、彼の残した足跡から、日本医療変革の種が芽吹こうとしている。

 「パッチ・アダムス」--- 1999年に公開されたロビン・ウィリアムス主演の映画のタイトルとしてご存知の方が多いだろう。ロビン・ウィリアイムスの演じた破天荒な医者、パッチ・アダムスは、実在の人物である。この夏、55歳になる「本物の」パッチ・アダムスが、たくさんの素敵なメッセージを携えて、日本を訪れた。映画に感動して彼に会いに来たたくさんの聴衆は、映画の何千倍もの感動を味わうこととなった。
  かくいう私も、映画「パッチ・アダムス」に涙した一人である。感動のあまり、「僕は『日本のパッチ・アダムス』になるんだ」なんて豪語していたくらいである。今回の来日の話を知って、「パッチ・アダムス招聘実行委員会」に連絡をとるまでに数秒とかからなかった。「日本のパッチ・アダムス」になるためには、本人に会って、握手して、サインをもらって・・・。そんなミーハーな動機もあったわけだが、実際に彼の講演を聞き、彼と会話を交わし、そして、彼から力強く抱きしめられたあとには、私の中には確固たる決意がわき起こっているのを感じた。
  「日本の医療を変えよう」
  この気持ちは、同じ場にいた多くの人々に共通のものだったはずである。
  病気を患っている人やそのご家族、医療従事者やその卵たちが、パッチからのメッセージを受けとめ、感動し、そして、行動を始めた。
  以下、一人のおどけた男の歴史的な日本訪問と、彼のまいた希望の種について報告する。本誌の読者の皆様にも、是非ともこの感動を共有していただき、そして、自ら医療に働きかけをしてほしいと思う。

 パッチ・アダムスは、1945年5月28日、米国ワシントンDC生まれ。父親は軍人で、幼少時代は様々な国や地域に滞在。日本にも3年間滞在したことがある。彼が16歳のとき、滞在先のドイツで、父親が心臓発作で急死。父親は第二次世界大戦と朝鮮戦争により、「心的外傷後ストレス症候群」の状態となっていて、これが急死につながったと彼は考えている。帰国してバージニア州に住み、ここで、人種差別に立ち向かう市民運動に参加した。父親の死から3年間、心の葛藤が続いたという。
  「暴力が父を殺し、世の中の不正と偏見が私を苦しめました」。
  来日イベント初日に昭和女子大学人見記念講堂で行われた講演会において、彼は、このつらい時期について、ゆっくりとした口調で語り始めた。
  そんな彼の人生を変えたのは、精神科への入院であった。伯父の自殺をきっかけに、自殺願望にとりつかれるようになり、自ら希望して精神科に入院。ここで彼は、家族や友人、そして、同じ病棟の患者から、「幸せ」「愛」「友情」の大切さを学び、精神病から回復した。特に、同室のルーディとの関わりは重要な意味をもっていた。ルーディは深い絶望と孤独の中にあり、リスの幻視におびえていたが、施錠された病室の中で、ルーディと話をし、ルーディの苦しみに触れ、ルーディとの友情を感じたとき、彼は苦しみから抜け出したという。
  「彼らは精神を患っているわけではなく、孤独に苛まれ、夢を失ってしまっただけなのです。彼らに必要なのは愛とユーモアでした。」
  「苦しみの中にいた私は、ユーモアによって命を与えられました。そして、今の活動の原動力となっているのもユーモアです」。
  彼は、ユーモアと健康の関係、ユーモアと社会との関係を、実例を交えながら、時には科学的に、時にはしゃれっ気たっぷりに語りつづけた。

 精神科を退院後、医師となって人を助けることを決意した彼は、大学へ入学。人間についてより深く知るために、膨大な量の読書をし、1967年には、バージニア医科大学に進学。ここで彼は医療の様々な問題点を目の当たりにする。
  たとえば、名前でなく病名で患者さんを呼ぶ医者たち。
  「医者というのは、病気にかかっている人間よりも、その病気の方が大事だと考えてしまう哀れな人たちだったのです」。
  医学生には、患者と「職業的距離」を保ち、できるだけ短時間の問診で検査や処方の判断をすることが求められていた。彼はこの指導に真っ向から反発して、患者さんとのふれあい、心の交流を楽しんだという。そして彼は、こんな医療の現実を根底から変革し、さらには、医療によって社会にも変化をもたらすために、自ら行動することを思い立つ。これまでに世界でどういう医療が行われてきたのかを研究した末に、彼は、あらゆる問題を解決しうる理想的な医療システムを考えつき、卒業直後の1971年、「新しい医療共同体についての宣言文」を書き上げた。
  「患者は治療を受けながら、同時に、自分への愛、他人への愛、また自然への愛、そして人生への愛も育てることになるだろう」(パッチ・アダムス著、新谷寿美香訳「パッチ・アダムスと夢の病院」主婦の友社刊より引用)。
  のちに「ゲズントハイト・インスティテュート」と名付けられる医療モデルがこうしてスタートしたのである。「ゲズントハイト」とは、ドイツ語で、「健康」「お大事に!」という意味である。
  彼は、十数人の仲間とともに、バージニア州やウエストバージニア州で、実験的な診療活動を行った。普通の家で、患者とともにさまざまな活動を楽しみながら、医療を行ったのである。この間、彼らは、患者に診療代を請求することも、患者の加入している医療保険を適用することも、自らが医療過誤保険に加入することもしなかった。12年間で訪れた患者は15000人。このうち3000人はいわゆる精神病者だったが、彼らは、鎮静剤をけっして使わず、ただ、ユーモアと愛と創造性だけを処方したという。
  当初はマスコミに取り上げられるのを拒んでいた彼も、夢の実現のためには多くの人に活動を知ってもらうべきだと考えを改め、PR活動を行うようになった。活動14年目にして初めて寄付を受け取り、彼の本が出版され、映画「パッチ・アダムス」が世界中で公開され、そして現在、ウエストバージニア州ポカホンタスに、夢を実現するための壮大な施設の建設が進められている。

 彼の掲げるゲズントハイト・インスティテュートの理念は表に示したとおりである。彼は、この理念についても熱く語った。
 彼は、健康を「病気でないこと」とは考えない。病気がなくても幸せでなければ健康ではないし、病気があっても幸せであれば健康だと言える。幸せになろうと努力すれば、誰でも健康になれるのである。
  「健康」とは、心も体も活力に満ちて幸せな状態にあることであり、その状態を作り出すものとして、彼は、愛、友情、ユーモア、優しさ、芸術、創造力、趣味、想像力、驚く心、好奇心、食事、運動、信仰、自然、家族、友人、地域社会との関わり、世界の平和などを挙げる。ゲズントハイト・インスティテュートでは、これらを医療の柱として積極的に取り入れている。これらこそが、病気を治す薬となるのである。科学技術が医学を発展させたのは事実だが、科学は永遠の健康を作り出すことはできないのであり、それだけを医療の柱として掲げる現代医療は、真の「健康」を生み出さないのだ。
  彼は、治療される者と治療する者の関係性を何よりも重視する。しっかりした関係が築かれれば、患者にとっては、その場にいること自体が治療となり、患者も医者も生きがいを感じることができる。
  彼は、問診には何時間も費やして、患者さんのことを知ろうと努めるという。その人をめぐる人間関係、社会環境などをすべて知ることが治療に役立つし、長時間話をすることで、患者さんと医者との間に友情が生まれるのである。
  「癒す術のない苦痛を訴える患者に、親しくなかったらどのようにして、医者はその苦痛を優しい慰めで埋め合わせることができるだろう?」(前掲書)。
  「医者が神であってはいけない」と彼は言う。医者は完璧ではない。患者さんは、そのことを知った上で、医者に頼るばかりでなく、自ら積極的に治療に関わらなければいけないのだ。

 彼は、医者であると同時に、ピエロでもある。人々に笑いを、世界に喜びをもたらすために、残りの人生をピエロとして送ろうと決めたという。今回の講演会でも、彼は、派手な衣装とパフォーマンスを披露し、客席で人々と戯れて、会場を笑いの渦につつみこんだ。あひるの帽子をかぶり、赤いつけ鼻をして、おもちゃの魚を持った彼。193cmの長身をいかに間抜けに見せるかということで考案したこの格好は、15年間愛用しているという。きょとんとしたまなざしと、おどけた声は、「無垢な心」を表現しているのだと言った。これこそが世界のすべての人に笑いをもたらしているのだ。
  彼は、ピエロになることが、二つの効果をもつことに気がついたという。一つは、人々に喜びをもたらすということ。そしてもう一つは、けんかをやめさせられるということ。ならば、紛争地域にピエロが行けば、平和がもたらされるのではないか? そういう思いで、彼は、何年もの間、世界中をピエロとして巡り歩いている。冷戦時代の「敵国」ソ連、紛争中のボスニア、コソボの難民キャンプ・・・。彼は、愛とユーモアをもって、どんなところにも輝きをもたらすのである。
  「世界中、笑いは共通だ。笑いが人々を健康にし、世界を平和にする」と彼は言い切る。
  「僕は飛行機いっぱいのピエロを連れて世界中を訪ねたいんだ。国連にもこう言いたい。武装する代わりにピエロの格好で紛争地域に行こう!」
  17人のピエロで訪れたコソボ難民キャンプでは、こう感謝されたそうだ。
  「あなたたちは私たちに命を与えてくれた。子供たちが再び遊びだし、恋人たちが再び手を握り合うようになった」。人間の美しさがここにある。

 講演会の終わりには、質疑応答の時間が設けられた。「なぜお魚を持っているの?」という子どもの素朴な質問から、死生観、宗教観、孤独についての質問まであったが、彼は、一つ一つに丁寧に答えていた。
  「私は家庭医になりたいのですが、日本では家庭医を育てるプログラムがありません。日本で家庭医になるにはどうしたらいいのでしょうか」と質問した医学生に対して、彼はこう語りかけた。
  「今のシステムの中でどうするか、と考えるのではなく、そういうプログラムがないのだったら、あなたが開拓者になればいい」。
  会場は拍手に包まれた。彼は、続けて、「医療に関係している人で家庭医が必要だと思う人は立ち上がって!」と叫んだ。客席の相当数の人たちが一斉に立ち上がると、「あなたは、この人たちと連絡先を交換して、すぐに行動を起こしなさい」と語った。
  「社会を変えたいと思うのであれば、あなたがた一人一人が行動すればいいのです」。
  大喝采の中、「やっほー!」という彼の声がこだました。

 来日イベントは、この講演会に始まり、5日間にわたって、国立小児病院訪問、順天堂大学病院小児病棟訪問、聖路加国際病院訪問、龍岡老人保健施設訪問、学生とのディスカッション、ワークショップ、都内観光などが行われ、フェアウエルパーティーで幕を閉じた。
  彼の来日を実現させた立役者は、日本医科大学医療管理学教室助教授の高柳和江さんである。高柳さんは、患者さんの体と心を癒す理想の病院や医療を目指す「癒しの環境研究会」の世話人としても精力的に活動している。高柳さんは、「医療としての芸術活動」を考える国際学会でパッチと出会い、手紙でのやりとりを重ねて、今回の来日までこぎ着けたそうである。一連のイベントの成功は、高柳さんの想像をも越えていたようで、「『日本の医療を変えよう、日本の社会を変えよう』というパッチのメッセージをしっかりと受けとめて、これから、その芽を育てていきましょう」と、興奮気味に語ってくれた。
  この来日イベントを支えたのは、数多くのボランティアであり、中でも、学生たちの活躍ぶりが印象的であった。日本医科大学3年の大橋直樹さんは、高柳さんからの依頼を受けて、全国規模で学生ボランティアを組織した中心人物である。彼は、この活動に関わったきっかけをこう語る。
  「僕は、大学生活3年目にして、孤独・退屈・恐れというパッチの言う3大悪に取り付かれていました。パッチのことは、映画で知り、興味を持っていました。実物と会ってみたい。彼に会えば、忘れていた何かを取り戻せるはず、そんな予感がしました」。
  来日数日前に集まった学生ボランティアは約30名。医学生が中心だが、看護学生や、医療とは直接関係のない分野の学生も積極的に参加し、夜を徹して地道な準備活動を行ったという。講演会では、彼らはピエロの格好に扮し、聴衆を大いに笑わせてくれた。
  彼らは、パッチと語り合い、病院訪問や東京観光に同行して、様々なことを感じたようである。
  大橋さんは、講演会前日の打ち合わせで熱く語ったパッチの言葉が印象的だったと言う。
  「僕は聴きに来てくれた人と、人間関係を結びたいんだ。僕が微笑んだら、相手も笑ってくれる。相手を抱きしめ、僕も抱きしめられる。お互いを愛し合える関係を築きたいんだ。僕は、聴衆の一人一人がどんな人たちなのか知りたい。そして、日本の人たちに、喜び、笑い、愛を表現するようになってほしい」
  彼の情熱に偽りはなかった。講演会後、ロビーで彼と手を握り合い、抱きしめ合い、彼の輝く瞳に見つめられた多くの人々が肌で感じたことである。
  国立小児病院への訪問では、ピエロの格好をしたパッチが、闘病中の子供たちと触れあった。彼が現れると、子供だけでなく、看護婦も医者もお母さんも笑って、病棟が明るくなっていった。子供たちの病状や今後の見通しはけっして明るいものではない。でも、彼らを孤独や悲しみの部屋に閉じこめていてはいけないのである。
  病院を出たパッチは、汗びっしょりになりながら、「みんながハッピーになるのって、ああいうことなんだ。奉仕をすること自体が喜びなのだ」と、学生たちに語りかけた。
  大橋さんは、病院訪問で、パッチのもう一つの表情をみたと言う。
  「終末期の子供をあやしたあと、母親を覗き込んだ瞬間、道化のパッチの間抜けな顔が、やさしい微笑みに転じ、彼女は彼に全てをぶつけるように泣き崩れたのです。その場にいた私たちも涙を禁じ得ませんでした」。
  パッチは、言葉と行動で学生たちに多くのメッセージを残した。ある学生はこう語る。
  「お別れの際、彼はまた私たちを抱きしめてくれました。彼に抱きしめられるとすごく安心できるのは、彼が本当に人を愛しているからだと思います。日本にはあまり抱き合う習慣がありませんが、今医療現場に必要なのは、このような心と心の結びつきではないでしょうか」。
  パッチが日本にまいた種は、着実に芽吹こうとしている。ボランティア学生たちは、今回の活動をきっかけに、新たな団体を組織しようと考えている。パッチの活動を世間に広め、彼から学んだことを医療現場で実現させていく。医療にユーモアと人間性をもたらす。医療システムを変え、そして、社会を変えていく---。彼らの夢は限りなく広がっていく。
  パッチは、学生たちにこう語りかける。
  「医学生のきみたちには、医療への途方もない夢をもってもらいたい。未知の世界を恐れることなく創造力を働かせるなら、きみたちにはそれこそどのような医療活動でも行うことが可能なのである。仲間と集いいっしょに飛び立つのだ! そして、きみたちは医療活動をしながら学び成長していくだろう」(前掲書)。
  学生だけではない。今回の企画を通じて、多くの人たちが新たな交流を得て、想いを新たにした。人々のつながりの中で、日本医療にも新たなうねりが起ころうとしている。「ゲズントハイト・インスティテュート・ジャパン」構想も持ち上がっている。
  高柳さんは、すでに、パッチの2回目の来日や「癒しの環境研究会」でのゲズントハイト・インスティテュート視察旅行なども計画しているという。
  私自身、医療を変えたい、変えなければ、と切望する一人であるが、パッチに出会い、同じ志を持つ方々と出会って、おおいに励まされた。彼に、私の理想とする「人間の人間に拠る人間のための医療」(HBM: Human-Based Medicine)について話した翌日、彼から手紙が届いたのには驚いた。
  「あなたと会えて、Human-Based Medicine実現へ向けた共通の方向性をつなぎ合わせることができて光栄です」
  そう書かれた手紙は、私にとって一生の宝物となるだろう。彼のメッセージを胸に、前進していきたいと思う。
  私は、彼にこんな質問をした。
  「人は誰でも最後には亡くなるのですから、病気を治すという点では、医療には限界があるわけです。限界をこえたあと、医療には何ができると思いますか?」
  彼の答えは明快であった。
  「医学の世界では、死を治療の失敗とみなし、真正面から取り上げてきませんでした。医学で患者さんを救うことができなくなると、医者は、全てを放棄して、『この患者のためにできることは何もない』と言ってしまうのです。これはなんと悲しいことでしょう。医者は、自分が完璧ではないと知り、謙虚な姿勢で医療に従事すべきです。医者は、死に打ち勝つためにいるのではなく、患者が豊かな人生を送れるように、そして、幸せな最期を迎えられるように、その手助けをするためにいるのです。私が医者になったのは、治療法のなくなった患者さんやそのご家族と一緒にいるため、愛を与えるためです」。

 フェアウェルパーティには150人がつめかけ、参加者のほとんどが仮装していた。彼のスピーチ、全員でのダンス、彼へのラブソング合唱などで盛り上がり、彼は涙と汗で顔をくちゃくちゃにしながら、「ありがとう、ありがとう」と繰り返していた。「日本にたくさんの友人ができた。また会いに来るよ!」

 私は、がんの患者さんやそのご家族に、映画「パッチ・アダムス」のビデオや、原作となった本「パッチ・アダムスと夢の病院」を処方したいと思う。
  「愛と友情とユーモアこそが最良の薬である」。


付表1(パッチ・アダムス著、新谷寿美香訳「パッチ・アダムスと夢の病院」主婦の友社刊より引用、一部改)

<ゲズントハイト・インスティテュートの理念>

  • 患者への思いやりが行き届きやすいような施設をつくり、一般的な医療現場でよく見られる医者と患者のあいだの壁を取り払う。
  • 治療する側の人々が、仕事のせいで心も体も消耗しきってしまうことのないように、患者だけではなく治療する側も思いやる運営方針を実践する。
  • 現在の主流である治療法のほかに、代替治療法も幅広く取り入れる。
  • 医療を、農業、自然、芸術・工芸、公演芸術、教育、社会奉仕活動、友情、娯楽などと結びつけて総合的に行う。
  • 互いにいたわり合い、助け合うことで感じられる癒しの力を、患者たちが得られるように導く。
  • 病気を予防する健康管理法と、自分の健康管理は自分の責任でするものであることを患者に教える。
  • 往診など患者との関係を大事にするよき時代の医療活動をもう一度見直し、活用する。
  • 医学部や看護学校の学生から、現在病院の幹部をしている医者まで、医療関係者が医療について新たな発見をすることのできる学校にする。
  • 人間は孤立した存在ではなく、家族、地域社会、世界の一部であり、だからこそ個人、家族、地域社会、世界のどれもが愛情と協力を必要としていることを社会に訴える。
  • 患者も医者も含めゲズントハイト・インスティテュートにいるすべての人々に、最大の健康と幸せを提供する。
  • お金と権力が価値観の基準となっている社会にあって、愛や友情など、人々が忘れかけているほんとうに大切なものに深い関心を払って施設を運営する。
  • 人々が、医療システムや社会のさまざまなシステムを変革する可能性を感じ、希望を持つことのできる施設環境をつくり上げる。