EBMについての文章集

「EBMジャーナル」 Vol.4 No.2 (2003年3月号pp. 52-56)(中山書店)

http://www.nakayamashoten.co.jp/ebm/index.htm


特集「Evidence Based Medicineの現在」
癌診療の現場から

 「エビデンスは患者と医師の共通言語」
高野利実


 
<ポイント>
・ エビデンスは、医師の間での共通言語であると同時に、患者と医師の間の共通言語でもある。
・ 医師がclinical expertiseを患者に提示し、患者がpatient valueを医師に提示し、エビデンスという共通言語で語り合いながら、医療を行っていくのがEBMである。
・ EBMは、個々の患者と向き合うことから始まり、個別化と一般化のダイナミックな循環によって進められる。
・ エビデンスを有効活用するためには、患者と医師が治療目標を共有する必要がある。
・ EBMの普及により、「最大多数の最大幸福」を目指せるようになった。これからは、さらに、「一人一人の人間の、その人なりの幸福」を目指すべきである。


1981年以降日本人の死因のトップとなっている癌。その数はなおも増え続けており、今生きている日本人の2人に1人が癌になり、3人に1人が癌で亡くなると言われている。この病気をめぐる話題は、まさに国民的な関心事である。巷には、良質のエビデンスから代替療法の誇大広告まで、様々な情報があふれ、患者は、わらにもすがる思いでそれをかき集めている。実像よりも、過大なイメージが先行していることが多く、癌との向き合い方は、「闘う」「克つ」「撲滅する」といった大仰な表現で語られ、医師が説明する言葉は、「希望」か「絶望」かの両極端で受け止められる。
癌とは、「不安」「絶望」「不幸」のイメージを背負った病気である。医療は、それを「安心」「希望」「幸福」に変えるために存在する。EBMに期待される役割も同じである。EBMの普及によって、患者や医師の癌との向き合い方はどのように変わってきたのか、そして、今後、よりよき癌医療のため、EBMをどのように活用していくべきなのか、考察してみたい。

■エビデンスは共通言語
国立がんセンター中央病院腫瘍内科で毎朝行われるカンファランスでは、前日の入院患者について、レジデントがプレゼンテーションを行い、診療方針について、その根拠とともに提示する。現状の評価、行うべき検査、治療のリスク・ベネフィットなどについて、先輩医師との間で議論を行い、診療方針を検討していく。この議論において、共通言語となるのがエビデンスである。意見がぶつかり合うのはよくあることだが、エビデンスの知識を共有し、EBMのルールにのっとってエビデンスを提示しあう限りにおいて、議論の軸がずれることはない。教授や部長であろうと、研修医やレジデントであろうと、共通言語を操っていれば、発言は対等に扱われる。共通言語なきカンファランスで、偉い先生の大きい一声だけが影響力を持つという時代は終わったのである。
エビデンスは、医師どうしの間だけではなく、患者と医師の間でも共通言語となりうる。患者−医師関係を長らく支配してきたパターナリズムの背景には、情報が医師側だけに偏って存在する「情報の非対称性」があったが、IT化の流れもあり、今や、医療をめぐる情報は、あらゆる人に開かれたものとなっている。インターネットを通じて、患者が、国際学会の発表内容を瞬時に知ることも可能である。米国NCIは、医師向けだけではなく、患者向けにも癌の標準治療や臨床試験の情報を公開しているし(http://www.cancer.gov/)、米国臨床腫瘍学会(ASCO)では、昨年、”People Living With Cancer”( http://www.plwc.org/)という患者向けウエブサイトを立ち上げている。日本でも、患者向けに、エビデンスに基づく情報提供を行う団体がいくつか存在している。
もちろん、情報と一口に言っても、雑多なものがあふれかえっており、かえって患者に混乱を与えている側面もある。患者と医師が、共通言語として情報を共有するためには、情報の質を評価する共通のモノサシが必要であり、それが、エビデンスレベル(信頼度)である。患者がエビデンスレベルを理解できれば、押し寄せる情報の波に飲まれてしまうことなく、うまく波に乗って、良質な情報だけを自分の受ける医療に活かすことができる。「これで癌が治ったという体験談が本に載っている」「動物実験で100%の効果があったと医学博士が言っている」という代替療法の情報を目にしたとしても、そのエビデンスレベルの低さを見抜ければ、余計な不安にかられたり、大金をつぎ込んだりすることも避けられるはずである。
逆に、自分の医療に関わる信頼度の高いエビデンスは、患者も最低限の知識として理解しておく必要がある。たとえば、早期乳癌で手術を受けようとしている患者は、術式について説明を受けるとき、「乳房温存術と乳房全摘術とで生存に差がない」という、多くのランダム化比較試験で示されているレベル1エビデンスを、知っているべきであるし、それを知らない患者に対しては、医師がわかりやすく説明する義務がある。そういうレベルのエビデンスを提示することなく、治療方針を説明することは、もはや許されない。
かつては、患者の想いと医師の想いに大きな隔たりがあり、両者の言葉が通じ合わないまま、一方的な医療が行われてきた。EBMの普及により、エビデンスという共通言語が与えられたことで、両者がお互いの想いを理解しあうための道具をようやく手にしたわけである。

■マスコミの姿勢
最近では、マスコミでもEBMという言葉が頻繁に紹介されるようになっている。ただの流行語としてではなく、その本質が理解され、エビデンスという共通言語が、新聞やテレビで普通に使われるようになれば、医療の質は大きく向上するはずである。しかし、残念なことに、マスコミの現在の報道姿勢にEBMの精神はあまり活かされていない。たとえば、昨年、非小細胞肺癌に対する分子標的薬として、世界に先駆けて日本で認可されたイレッサは、当初、「副作用なく効果が期待できる夢の薬」として紹介され、発売から約4カ月で約1万7千人の患者に処方された。ところが、間質性肺炎などの副作用による死亡例(昨年12月4日の発表で81名)が報告されると、一転、「悪魔の薬」に格下げになってしまった。ベネフィットだけをクローズアップして過剰な期待を煽った当初の報道も問題であるし、リスクだけをクローズアップして過剰な不安を煽った発売後の報道も問題である。癌の治療では、リスクとベネフィットが表裏一体の関係にあるのは言うまでもなく、リスク・ベネフィットの微妙なバランスを、エビデンスに基づいて慎重に評価するためにEBMがある。今回の一件は、それを人々に伝え、エビデンスを共通言語として広める絶好の機会であったはずだが、安易なセンセーショナリズムに負けてしまった。過剰な期待や不安を煽られて不利益を被るのは患者である。マスコミ関係者には、今後の報道のあり方について、より深く考えていただきたいと切に願う。


■EBMの3要素
エビデンスはこれからの医療において欠かせない共通言語であるが、あくまでも、患者と医師が使う道具の一つであって、それ以上のものではない。EBMとは、エビデンスだけですべてを決めようとするものではなく、@best research evidence、Aclinical expertise、Bpatient valueの3つが統合された医療である1)。Aは、医師の「専門知識・技術」であり、医師には、患者の病状を正確に把握し、エビデンスの適用について専門家としての高度な判断をすることが求められる。Bは、患者の「価値観」であり、病気との向き合い方、治療目標、人生観や死生観を含む。Aは医師の主観、Bは患者の主観を含む要素であり、客観性に裏打ちされた@の「エビデンス」を介在させながら、両者がそれぞれの考えを相手に語り合うことになる。真の「インフォームドコンセント」とは、医師がclinical expertiseを患者に提示し、患者がpatient valueを医師に提示し、それらの情報とエビデンスとを統合させ、両者の納得する合意に至る、というものである。医師の判断を一方的に告げ、患者に合意のサインだけさせるのでは、いくらその判断がエビデンスに基づいていたとしても、EBMとは言えない。

■EBMの5つのステップ
医師がEBMを実践するとき、次の5つのステップを踏むべきとされる。


<ステップ1> 疑問の定式化
<ステップ2> エビデンスの検索
<ステップ3> エビデンスの批判的吟味
<ステップ4> 患者への適用
<ステップ5> ステップ1〜4の評価


個別の事象から生じた疑問を、一般化し、客観的なエビデンスに答えを求め、再び個別化して目の前の患者に適用する。さらには、一連の過程を評価して、他の患者の診療にも役立てる。この、「個別化」と「一般化」のダイナミックな循環がEBMの本質である。一般化の側面ばかりにとらわれ、「標準治療」や「ガイドラインに沿った医療」がどんな場合でも最高の医療だと考えるのも誤りであるし、一般化のステップを経ることなく、個別の患者−医師関係の中だけで問題を解決しようとするのも危険である。
癌医療におけるエビデンスは比較的充実しており、ステップ2と3は日常的に実践されるようになっている。エビデンスから導かれるstate of the art(現時点で最も優れていると考えられる医療)、主要なガイドライン、質の高い論文や学会発表などの一般化された情報については、最低限の知識として多くの医師に共有され、日々の診療に反映されている。この点においては、EBMは十分に普及したと言えるだろう。
しかし、個々の患者が、その恩恵を実感しているかというと、必ずしもそうではないように思える。EBMを患者の満足度に直結させるために重要なのは、ステップ1と4である。まず、最初にあるべきは、エビデンスではなく、個々の患者と向き合う中で生じる疑問である。ステップ1で定式化される疑問は次の4要素に集約される。


P: Patient(Problem):ある患者(問題)に対して、
E: Exposure(Intervention):ある介入(治療・検査など)を行うことによって、
C: Comparison intervention:別の介入と比べて、
O: Clinical Outcomes:結果(アウトカム)はどのようになるか。


目の前の患者が抱える問題を直視し、その患者が最も満足できる医療を見つけるためにエビデンス探しを行うのであって、エビデンスをすべての患者に画一的に当てはめるのではない。
ステップ4では、検索と批判的吟味を経たbest research evidenceを、clinical expertise、patient valueと統合させ、最適な医療を選択することになる。個々の患者の問題に完全な回答をもたらすエビデンスがある場合はむしろ少なく、実地医療では、エビデンスの外的妥当性を評価して外挿したり、患者の現状に応じてリスクやベネフィットの評価に微調整を加えたりすることが多い。そのような判断には、clinical expertiseが欠かせない。

■治療目標の共有
ステップ1と4では、patient valueが、より大きな意味を持つ。患者の考える治療目標により、価値をおくアウトカムは異なり、ステップ1で定式化される疑問(PECOの’O’)も違うものとなる。疑問に答えるためには、そのアウトカムをエンドポイントとして評価した臨床試験を探す必要があるし、同じ臨床試験であっても、重視するアウトカムによっては、異なる解釈に至ることもありうる。
癌医療において、多くの医師が重視しているアウトカムは、根治可能な状況であれば「根治」、根治不能であれば「延命」である。エンドポイントで言えば、「無病生存(Disease Free Survival)」や「総生存(Overall Survival)」であり、質の高いとされるランダム化比較試験では、これらが1次エンドポイントとなっている。DFSやOSが有意によければ、それが優れた治療であり、現時点で最も優れた治療が標準治療として認識される。「治療の副作用」「症状緩和効果」「QOL」なども評価されるが、たいていは2次エンドポイントであり、治療の優劣の判定にはあまり用いられない。根治不能な状態での「腫瘍縮小効果」は、「生存」よりも評価しやすいため、代理エンドポイントとして治療の優劣の判定に使われることがある。
医師は、生存を改善させることを治療目標と考え、それを実現するために標準治療を薦めるわけであるが、すべての患者が同じように考えているとは限らない。わずかな延命にしかならないのなら、苦痛を伴う治療は受けたくないと考える人もいれば、延命効果が示されていない治療でも、治療すること自体に意味を見出す人もいる。時には、医師の方も、真の治療目標を見失って、漫然と「治療のための治療」を続けてしまうケースもあるようである。
医療が目指すべき究極のアウトカムは、人間の幸福である。生存やQOLは、幸福に直接関わるという意味で、真のエンドポイントと呼ばれるが、生存期間の長さやQOLの高さと幸福との相関の度合いは、人それぞれの価値観によって様々である。エンドポイントで割り切れないものが幸福に大きく関わっていることもよくある。生存に関して優れていればいいというものでもないし、かといって、「QOL」を加味して考えればいいという単純なものでもない。生存の代理エンドポイントである腫瘍縮小効果で幸福を推し量ることはさらに困難である。幸福を客観的に評価する指標が存在し得ない以上、エビデンスで万人に通用する結論を出すことはできないのであり、結局は、個々の患者の治療目標に応じて、エビデンスを主観的に解釈する作業が不可欠となる。
患者と医師とが明確な治療目標を共有しないまま治療を行うのでは、治療が医師の自己満足にしかならない危険性がある。治療方針を考えるときには、まず、患者の考えを聞き、共通の治療目標を設定する必要がある。患者と医師は、治療目標を共有し、その目標に近づくための治療方針についてエビデンスに基づいて話し合い、結論が得られれば、力を合わせて治療に取り組んでいく。それがこれからの医療のあるべき姿であろう。治療目標の共有なくしてエビデンスの有効活用はありえない。

■真のEBMへ
医療において重要なのは、根拠、目標、理念である。2400年前のギリシャの医師ヒポクラテスは、有名な「ヒポクラテスの誓い」の中で、「私は、自分の能力と判断に従い、患者の利益となると考える養生法をとる」と書き、医療の根拠、目標、理念を明確にした。ところが、20世紀日本の医療にこれらの概念を探しても、なかなか見当たらない。医師の論理や価値観による根拠や目標があったのだろうが、少なくとも、患者にはそれが明確ではなく、患者は、「お医者様」を信じるしかなかった。いわゆるパターナリズム医療であり、前近代的な医療とも言える。
近年のIT化は、情報の非対称性を崩し、「お医者様」が完璧な存在ではないことも明らかにした。医療ミスの報道が急増したのもこれとは無縁ではない。医療不信が沸き起こるのと時を同じくして登場したのがEBMである。医師が医療の根拠とするものにルールが与えられ、それが患者にも共有できる形で広まった。EBMの画期的な点の一つは、医療の不確実性を前提にしていることである。かつて「お医者様」に期待されていた絶対的・普遍的な医療は否定されている。エビデンスとは、「治療Aが治療Bよりも、ある意味において優れている」という相対的な統計学的事実の積み重ねであり、時が経てば違うエビデンスに置き換わっていく。
現時点で相対的にもっとも優れているとされる治療が標準治療であり、標準治療をすべての患者に行えば、利益を受ける患者の数が最大となり、平均としてアウトカムも向上する。集団医学的な見地に立てば、EBMの目的はここにある。功利主義の用語を使えば、「最大多数の最大幸福」を目指す医療とも言える。もちろん、集団の結果の平均がよくなるということは、目の前の患者が利益を受ける確率も高くなるということであるから、個々の患者にとっても悪い話ではない。エビデンスに基づく標準治療が広まることは、医療のレベルの底上げを意味する。少なくとも、より効果の期待できる医療について知らされずに非標準治療が行われることはなくなっていくはずである。根拠の曖昧だった前近代的な医療から脱却し、ようやく近代化を成し遂げたことになる。
しかし、標準治療は、あくまでも最低ラインを保証するものであって、絶対的・普遍的なものではない。それを画一的に当てはめるのは、「最大多数の最大幸福」にはなっても、個々の人間が実感できる幸福には必ずしもつながらない。真のEBMは、さらに先にある、「一人一人の人間の、その人なりの幸福」を目指すべきものである。
Narrative-Based Medicine(NBM)の概念(→本誌の山本和利先生の論文参照)も紹介されているが、真のEBMは、NBMとも重なり合う。医療の主体は人間であり、医療の根拠は、人間を対象にした臨床試験から導かれるエビデンス(EBM)と、人間としての語り合い(NBM)である。そして、医療の目的は、人間の幸福である。これを一言で表現すると、「人間の人間に拠る人間のための医療」となる。他の分野に比べるとだいぶ遅れをとってしまったが、真のEBMが実現すれば、それが、ポストモダンの夜明けということになるだろう。

1) Sackett DL, Straus SE, Richardson WS, et al: Evidence-Based Medicine, How to Practice and Teach EBM, Second Edition. Churchill Livingston, Edinburgh, UK, 2000