<2-9-2> 「脳の共有」
 

人間にとって最大の欲求---「脳の共有」
人間の体で他人と共有できるのは「脳の中身」だけ。身体はどう頑張っても他人とは共有できない。(養老孟司)
「脳の共有」→コミュニケーションによる。
対面する人と人のコミュニケーション(会話)
脳→言葉→口→空気の振動→耳→言葉→脳
現代社会におけるコミュニケーション
脳→広義の言語→output→媒体(社会システム、コンピュータ、電話機、マスコミ、出版、電波etc.)→input→言語認識→脳

コミュニケーションの不完全性→欲求不満

「脳化社会」(養老孟司)---「脳の共有」欲求が作り上げた社会。

独我論---
→極論では、「脳の共有」の不可能性を言っている。
「死んだら全て終わり」
プラトン「イデア」、カント………(竹田青嗣)

死後に名声を残したいという欲求。多くの人の記憶に残りたいという欲求。→「死んだら終わり」ではない。「脳の共有」によって身体の死を乗り越えることが可能?生前に脳の中身を他の脳に共有させておけば、脳の中身は「生き残る」。
脳の共有の欲求→根底に「死の回避」
子孫に残す「遺伝子」はどうか?これも「死の回避」?

身体の死は避けられない。→・遺伝子を残すこと、・脳の共有をすること、によって生き残るしか道は残されていない。

脳の共有のレベル→他の一つの脳から社会全体まで。
「できるだけ多くの脳で共有したい」という欲求→名誉欲、征服欲、全体主義………。

NHK「新しい生命観」
・サイボーグ---ホモ・サピエンスの時代は終わり、ホモ・サイボーグの時代が始まっている。人間と機械の複合体。科学技術は、社会にも、人間の中にも浸透している。根底にある欲求は「死の回避」
・冷凍保存---死んだ直後に死体を冷凍保存し、将来生き返らせ、若返らせる。そんなことがあるか?脳だけOR全身。脳だけの人は、将来クローン技術で体を作る?無脳児に移植する?冷凍保存中の人は「生きている」のか?「未来を見たい」という動機。

高野の解釈
・機械、科学技術=人間の脳の進展
脳の共有の媒体としての機械
死の回避=脳の共有
・脳だけを残すという発想→脳の中身こそ「自分」のすべて。体は別でよい。
脳の中身を保存したいという欲求→「脳の共有」への欲求。さらに究極的に「脳そのものの保存」へ。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」P22〜
P25
人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の達成に全面的に失敗したら、発狂するほかない。なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。そうすれば外界も消えてしまうからだ。
どの時代のどの社会においても、人間は同じ一つの問題の解決に迫られている。いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するか、いかに個人的な生活を超越して他者との一体化を得るか、という問題である。
この問題に対する答→母親との一体感、自然との一体感、祝祭的興奮状態、性的体験

「脳の共有」ex.1
セックスは「身体の共有」への欲求、ただし実現は不可能。合一感という幻想。身体が共有できないから「脳の共有」を求める。恋人同士で趣味などを共有したいという欲求→脳の共有が親しさの表現の一つ。
恋人同士だけの秘密、二人で同時に死にたいという欲求は「脳の広い共有」の欲求に反する?

「脳の共有」ex.2
表現(芸術・文学・インターネット・マスコミ・・・)
自分の脳の中身を他の脳に広げること

「脳の共有」ex.3
宗教・カルトへひきつけられる人間
自分の脳を他人の脳に近づける欲求。より完全なる「脳」によりひきつけられる。

「脳の共有」ex.4
自殺する人がのこす遺書
身体が死んでも、残したい物はある。それは脳の中身。脳が身体よりも相対的に重くなる。
華々しい自殺、美化された遺書→身体を死なせることでより強く脳の中身が共有されることになる。→身体の死が「死の回避」となる?

「脳の共有」ex.5
世界精神、世界意識、共同幻想
--脳が共有された究極の姿
ソルジェニーツィン『ガン病棟』(小笠原豊樹訳)より
「全部は死なない」と、シュルービンは呟いた。「全部じゃない、死ぬのは」
譫言(うわごと)だ。………
「かけらだよ………かけら………」と病人は口走った。
ふとオレークは思い出した。シュルービンは譫言を言っているのではない。手術直前に話し合ったときのことを、オレークはまざまざと思い出していた。そのとき老人は言ったのだった。「私の内部は、全部が私じゃない。ときどき、はっきりそう感じるんだ。何か絶対に撲滅できないものが、非常に高貴なものが、内部に巣くっている!世界精神のかけらみたいなものだ。きみはそう感じることはないかね?」

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