<僕はロマンティシストである>
報告書のエッセイの原稿を依頼されたとき、まず思いついたテーマが、「ロマンティシズムについて」であった。僕自身にとって、これは、非常に「書きたい」テーマであり、書こうと思い立って以来、「どのように書くべきか」という懸案が常に頭の中を巡っていた。遅筆家である僕にとっては、書くテーマを決めてから実際に書き始めるまで頭の中で温める期間が長いのが常ではあったが、これほどまでに長かったのは初めてである。そして、この熟成期間にいくつかの思いがけない収穫があった。「ロマンティシズムについて書こう」という意識が頭のどこかにある状態で日々の生活をしているうちに、世の中の様々な事象の中から、「ロマンティシズム」に関わる数々のキーワードが見えてきたのである。
以下に記すのは、そのような収穫も含めた「ロマンティシズム論」である。JASCの仕事に追われ、学校にはほとんど行っていないにもかかわらず、いつもこんなことを考えているというのもまた、ロマンティシストのなせるわざである。
<花はなぜ咲くのか>
「花はなぜ咲くのか?」---僕が小学生か中学生だった頃、学校の先生がこういう質問を投げかけた。そして、それに対する「正解」は、「種の保存のため」であった。花を咲かせることにより、昆虫を引き寄せ、昆虫に蜜を吸わせるかわりに花粉を他の花まで運ばせるのだという。これを聞いた高野少年は一種の衝撃を受けた。
「花が咲く理由までもが科学によって説明されるのか。科学はすごいんだなぁ。」
以来、僕は科学の世界に引き込まれ、その後の道を歩んでいくことになる。
しかし、高校生となった高野少年はこの「正解」に、ふと疑問を持つ。
「美しく鮮やかな花々が、ただ『種の保存』のためだけに咲いている、と割り切るのは実に味気ない話ではないか。」
そして、高野少年は確信を持って言い切る。
「花はこの世の中に彩りを添えるため、そして、恋人たちの語らいを静かに見守るために咲くのである。」
このとき、少年はロマンティシストとなった。
世の中の全ての事象を「真理」という言葉で説明しようという科学者たちの試みはよく理解できるし、そこにまた科学の魅力はあるわけだが、この世の中はそう簡単に割り切れるものではないのである。
一方で物理や数学の「絶対的真理」のあり方に陶酔し、他方で「絶対的真理」を身近な事象にあてはめることを拒絶するという、一見矛盾した態度をとったのが、高校時代の僕であった。
<ロマンティシズム×合理主義>
広辞苑によれば、ロマンティシズムは合理主義の対立概念である。
合理主義とは、
「一般に理性を重んじ、生活のあらゆる面で合理性を貫こうとする態度。」
そして、合理性とは、
「(1)道理にかなっていること。論理の法則にかなっていること。
(2)行為がむだなく計算され能率的に行われること。
(3)事態が理想的な目的に適合していること。」 である。
つまり、科学の「真理」を生活のあらゆる面にあてはめ、「真理」の枠から外れる「無駄」を排除するのが合理主義、そして、その「無駄」に意味を見出すのがロマンティシズムであるという、きれいな構図ができ上がる。高校時代の僕は、「真理」の存在を認めつつ、「無駄」にも愛着を抱いていたのである。
「無駄」を排除すれば、確かに仕事の能率は上がるかもしれない。しかし、論理だけに支配された世界というのはいかにも味気ないではないか。道端のタンポポも、すみれも、バラも、すべて「種の保存」のために花を咲かせているだけであって、あの美しさは「無駄」だと言うのか。
僕はマッキントッシュのデスクトップを飾るのを比較的好むが、マックの場合、飾りを多くすると、処理スピードが落ちる。合理主義者であれば、飾りを徹底的に排除して、ひたすらスピードを求めるかもしれないが、僕はある程度の飾りはあってしかるべきだと考える。「無駄」だからと言って非合理的なものを全て排除してしまった世界というのは想像するだけでも恐ろしい。
<ロマンティシズム=付帯価値の追求>
僕自身は、ロマンティシズムを、「付帯価値を認める考え方」と定義している。前章で「無駄」と言っていたものを「付帯価値」と言い換えたわけである。例えば「花」という存在があるとき、その「美しさ」は「付帯価値」である。
合理的な「実価値」というのがあるとすれば、それ以外が付帯価値である。広辞苑によるロマンティシズムの定義に、「感情」「空想」「主観」「個性」「形式の自由」とあるが、これらが「付帯価値」に通じ、これらと対立する「実在」「客観」「普遍」「形式」といった概念が「実価値」に通ずると言えるだろう。つまり、花を見て、主観的・感情的に「美しい」と言うのは、花の「実価値」ではなく「付帯価値」を言い当てたということになる。
ロマンティシズムは、この付帯価値を、世界を形成する重要な要素として認める考え方なのである。そして、この定義に従ったとき、僕の高校時代の矛盾も解ける。僕はロマンティシストでありながら、物理や数学の「絶対的真理」に陶酔していたと述べたが、この陶酔は、普遍的で客観的な「真理」を実在世界にあてはめることに向けられていたのではなく、実在世界とは別のところにある、物理や数学といった空想世界における真理、そして、その真理の「付帯価値」に向けられていたのである。つまり僕は、物理学という方法を使って思いを馳せた宇宙の壮大さ、数学の論理展開の美しさ、といった「付帯価値」の部分に魅力を感じていたのである。この意味で、僕の「真理」への傾倒も、ロマンティシズム一つの現れであったということができる。
<ロマンティシズム=意味論>
一昨年、多田富雄という免疫学者が書いた「免疫の意味論」が大佛次郎賞を受賞して話題になった。多田氏は世界の第一線で活躍する科学者でありながら、文芸書を書き、新作能を作り、自ら小鼓を打つという多才な人である。「免疫の意味論」では、免疫現象を科学的に説明しつつ、そこに秘められた「意味」に考察を加えている。たとえば、こういう話がある。
「受精卵を操作してニワトリの脳を持つウズラ(キメラ)を作る。誕生後まもなくすると、ウズラの免疫機構が働いて、自分の脳を非自己と認識して排除しようとし、その結果、脳の機能が低下して死に至る。ここで問題となるのは、『自己』のありかである。多くの人が『自己』は脳にあると考えるが、ニワトリとウズラのキメラの場合、その脳は免疫機構によって非自己とされ、排除されてしまうのである。」
多田氏はこういう事実から意味論を展開していく。
科学が多様化・細分化・専門化する中で、近年、全体的な視点から科学の意味を考える科学者が脚光を浴びるようになっている。多田富雄氏、養老孟司氏、中村桂子氏などはその代表である。そして僕も、この「意味論」に大きな関心を抱いている。
「科学者は、科学によって解明した普遍的事実を科学の言葉で客観的に記述するのが仕事であって、主観的な考えは極力排除するべきだ」というのが、長い間科学者たちを支配していた考え方であり、今も多くの人がそう考えている。まさしく合理主義である。しかし、「意味論」はこの合理主義に真っ向から対立する。科学によって解明した事実に、主観的な「意味づけ」をしようとするのであるから、これはむしろロマンティシズムの管轄である。
46JASCの哲学分科会で僕は、「科学の普遍性追求には限界が見えてきており、これからの『人間性の時代』においては、科学も人間との関わりにおいて捉えるべきである」と述べた。人間の外側に純粋な系を作って、そこに普遍的真理を追求するのは、不可能かつ無意味であり、人間の脳を主体において、自然の事象を主観的に眺める方が有意義かつ面白いことだというのが僕の考え方なのである。そして、最近になって、この考え方の根底にあるのもまたロマンティシズムであるということに気付いた。
先日、医学部のコンパで、東大医学部でノーベル賞をとるならこの人だと噂される教授と一緒に飲む機会があり、JASCの話などをしたあとで、「意味論」についての話をしてみた。「先生は『意味論』についてどうお考えですか?」 教授の答はこうだった。「あんなのは邪道だよ。」その後、僕の哲学分科会でのプレゼンテーションの話などを持ち出して反論を試みたが、教授の自信は揺るがない。彼は普遍的真理の存在を信じており、「それがわからないっていうのは残念だなぁ。まだ君はサイエンスの本当の面白さを知らないんだよ。」と言った。
科学者にもいろいろな考え方がある。上記の教授の考え方を否定するつもりはないし、むしろ、話していて、彼の考えに納得させられる部分もかなりあった。この世の中、ロマンティシストがいれば合理主義者もいるのであって、その多様性があるからこそ面白いのである。酒の席での彼との議論は、ミーハーな僕にはたまらなく楽しかった。ちなみに、彼が僕に言った最初の言葉は、「君は実習では見かけたことがないなぁ。」であったが、コンパの最後には、「意味論の君」と呼ばれるようになっていた。
<ロマンティシズムと男と女>
やはり、このテーマにも触れるべきだろう。件の多田富雄氏はこう言っている。
「女は『存在』だが、男は『現象』にすぎない。」
ヒトのゲノムには、23対の染色体が存在するが、性(SEX)を決めているのは、1対の性染色体であり、X染色体が2本あれば女(♀)、X染色体が1本とY染色体が1本あれば男(♂)となる。もともとすべて♀であったのが、Xに比べれば極めて小さいY染色体の存在によって、なんとか♂の特徴を発現させているのが男である。受精のときは、巨大な卵子に、微小な精子がなんとか入り込んで、XまたはYの染色体を卵子の核に送るわけであるが、当然、受精卵の大部分は♀由来のものとなる。また、男女産みわけが(生物学的に)可能なのは、精子を遠心分離器にかければ、軽いY染色体入りの精子と重いX染色体入りの精子が分離できるからである。
このような事実を考えると、やはり、男は実に軽い存在であるように思えてくる。女が、重いY染色体2本に裏付けられて確固たる「存在」を有しているのに対して、男が男となり得ているのは、軽いY染色体がなんとか発現したという「現象」のおかげなのである。
もちろんこれは、生物学的事実に過ぎないし、多田氏が洒落っぽく言っていることではあるが、これをジェンダーにあてはめて考えるというのも、悪くない発想であろう。例えば、養老孟司氏はこう言っている。「女性はそれ自体が『存在』であるからいいが、男性にはそれがなく、外からアイデンティティーを与えられなければならない。その結果できあがったのが男性中心社会なのではないか。」つまり、男はゲノムにない「存在感」を、社会における地位や権威で補ったというのである。
この場合の「地位」や「権威」は、いわば「付帯価値」である。まあ、これを「実価値」と言う人もあろうし、事実「実価値」としてまかり通ってしまっているのが現代日本社会である。しかし、個人レベルで考えたとき、やはり、「地位」や「権威」がその人にとっての「実価値」であるとは言いがたいと思う。そして、「地位」や「権威」にとどまらず、あらゆる付帯価値を求めるのが男というものではないだろうか。
哲学・科学・芸術といった分野で活躍するのが主に男だったというのも、もちろん、社会的な制約が大きく影響したのだとは思うが、付帯価値を外に求める男の特質によるものだと考えられなくもない。男というのは、合理主義的な枠組みを外れたところに価値を見い出し、「無駄」とも思えることを追求する傾向を持つロマンティシストなのである。哲学や科学や芸術は、実学的な側面もあったわけだが、人間の欲求を満たす行為だとみなした方が当たっていると思う。そして、自分自身ではアイデンティティーを持っていない男の方が、女よりも、外の世界に対して強い欲求を抱いていたのではないかと思う。「科学が合理主義的な枠組みを外れている」というのは、前述したことと矛盾しているかもしれないが、キリスト教社会に限って言えば、中世の「合理性=キリスト教・神」の枠組みの中では、科学などは非合理極まりない学問だったわけであり、また、科学こそが合理性に適うものとされている現代にあっても、科学によせるロマンというのは合理主義的な枠組みから外れたものだろう。
少し断定的に書いてしまったが、僕が言いたいのは、「男の『自己』はもろく、男の方がロマンティシストになる傾向が強い」ということである。もちろん、自分自身で確固たるアイデンティティーを持っている女性が、それにも飽きたらずにロマンティシストとなることは十分に考えられるし、男性中心社会が崩壊していくにつれて、そういった方面で才能を開花させる可能性も増えていくだろう。「現象」である男より、「存在」である女の方が、潜在的に強い力を持っているわけで、もし、女性が男性と同じような欲求を抱いて、それを追求するならば、女性の方が才能を発揮するのではないかとも思う。
「元始、女性は太陽であった。」というのはそれをよく言い当てている。女性が太陽であるなら、男性はそこから派生したプロミネンスである。プロミネンスは名前の通りよく目立つ。しかし、プロミネンスは、現れては一瞬で消えるはかない「現象」であり、そもそも太陽という「存在」がなければ現れることもできない。太陽は核融合エネルギーを体いっぱいに貯めこんだ、実にパワフルな「存在」である。男が女性の社会進出を恐れる理由はそこにある。
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