以上、ハーセプチン治療について、できるだけ公平な視点で書いてみました(偏りがまったくないというつもりはありませんので、皆様なりによくご検討ください)。巷にあふれている情報といささか趣が異なっていることにお気づきの方もいらっしゃるかと思います。ここでは、マスコミが流している情報の一部と、私がボランティアをしているCancer Net Japanへ寄せられた反応を検証してみたいと思います。
<患者に過剰な期待を持たせたマスコミ報道>
ハーセプチン治療をめぐるマスコミの対応ですが、1998年に米国FDAが認可した頃から少しずつ紹介されるようになりました。日本での保険適応が遅れる中、新薬への期待は徐々に高まっていき、「25000人中15人が副作用死」というニュースも逆風とはならず、やがて、「幻の特効薬」「がんを治す奇跡の薬」といったイメージが一人歩きするようになっていきました。1999年11月、Cancer Net Japanのホームページに、私の書いた「乳ガンの新しい治療薬『ハーセプチン』」という記事が掲載されると、Cancer Net Japanあてにハーセプチン治療についての問い合わせが殺到するようになり、必要に迫られて、私たちは、自己輸入による治療を開始することにしました。遠隔地から相談があった場合には、協力してくれる医師を探してもらい、自己輸入の方法だけお教えしました。もちろん、相談があっても、無条件にハーセプチン治療に結びつけるということはせず、正確な情報を提供して、その患者さんが本当にハーセプチンによって恩恵を受ける可能性があるのかどうかについて話し合いを重ねた上で、限られた人について治療を行いました。ハーセプチン1320mg(体重55kgの方で11回分)の輸入に約90万円かかる高価な治療であり、しかも、日本では認可前であるわけですから、責任の所在も含めて、慎重な話し合いが不可欠でした。今年1月4日には『読売新聞』「医療ルネサンス」で自己輸入によるハーセプチン治療の話題が取り上げられ、また相談件数が増えました。当初2000年の認可と言われていたものが、結局、日本で保険適応となって使用できるようになったのは今年6月のことでした。じらされた分だけ期待も積もり積もっており、マスコミの方々も力を入れてこのニュースを伝えました。
7月22日の『朝日新聞』日曜版では、「これまでの方法では治すのが難しかったものに新しい治療薬が登場した」と、あたかも、ハーセプチンが転移性乳がんを治癒させうるかのような表現がなされ、よく効いた一人の患者さんが紹介されています。臨床試験のデータも具体的な数字では示されておらず、公平な情報とは言い難いものです。さらに、『週刊現代』7月14日号には、平岩正樹氏のレポートとして、「『ガンを治す』外資のあの新薬がついに承認された!」という記事が掲載されています。不正確な記述で、「エレガントさ」だけが強調され、肝心な「どのような効果が期待できるのか」ということには触れられていません。そんな内容でも、タイトルがタイトルなだけに、読者の頭には、過剰な期待が膨らんでしまいます。
<近藤氏によるハーセプチン批判はいきすぎ>
こういう状況を受けて、近藤誠氏は、『文藝春秋』9月号で、「夢の治療薬」というイメージが広がることに警笛を鳴らしています。「問題は、専門家、製薬会社、そしてマスコミによって根拠のない夢が語られ、病人たちがいても立ってもいられない気持ちに駆り立てられてしまうことではないか。その結果、臨床現場では、これが駄目ならそれ、それが駄目ならあれ、といった具合に、つぎからつぎへと新たな抗がん剤が提示され、患者は懊悩しながらもそれをうけ、副作用に苦しみ、死ぬまで気持ちと身体がやすまる暇がない、という状況になっています」という指摘は、まったくその通りだと私も思います。
ただ、「だから、ハーセプチンは使うべきではない」とする論調はいきすぎです。同じ記事で、慢性骨髄性白血病に対するSTI571治療については、「有望」との評価を与えていますが、現時点で示されているエビデンスを公平にみる限り、STI571とハーセプチンの有望性にそれほど差があるとは思えず、一方を「有望」、他方を「有望でない」と断じる近藤氏の主張は恣意的と言わざるを得ません。近藤氏がSTI571の有望性の根拠としている臨床試験(NEJM 2001;344:1031-7)は、第1相試験であり、安全性と忍容性の評価が主な目的です。これに参加した人において、白血球数が正常化した人が多かったからといって、比較試験でない以上、効果のあるなしを論じることができないということは、皆様もよくご存知のことと思います。そもそも、白血球数の増減よりも重要なエンドポイント(治療目標、効果判定基準)と考えられる生存期間は、ここでは評価されていません。この治療の有効性を言うには、現在進行中の第3相試験(インターフェロン+シタラビンと生存率などを比較)の結果を待つ必要があるのです。私自身、STI571の有望性には期待を寄せており、この点において、近藤氏の主張に異論はないのですが、第3相試験の第1エンドポイントで有意差のついているハーセプチン治療を批判したその筆で、第1相試験のみを根拠にSTI571をいい薬だと断じる恣意性に違和感を覚えずにはいられません。
なお、近藤氏がハーセプチンを批判する根拠としているのは、私が前半で紹介したのと同じ二つの臨床試験の結果です。単剤での第2相試験について、近藤氏は、ハーセプチン治療で15%でしか腫瘍縮小効果がみられないのは、従来の抗癌剤治療と比べて低すぎると主張しています。ここで近藤氏は、腫瘍縮小効果をエンドポイントとして重視しているわけですが、この論理でいくと抗癌剤治療の方がいいということになり、近藤氏のこれまでの主張と矛盾が生じます。また、抗癌剤との併用の第3相比較試験について、近藤氏は、生存率曲線が42ヶ月を経過したあたりで交わることを問題としていますが、根治を目指す治療でない以上、何年も時間がたてば、生存率が同じ程度に収束するのは当然のことであり、何年も先でのできごとについて直接の問題としてかかわるのは、ごく一部の患者さんに限られます。そういう細かいことを取り上げて、より多くの人にとって切実な、数年内における生存率延長効果を無視するというのは妥当とは思えません。どんな臨床試験でも、結果がでた後で、細かいところをほじくり返して、恣意的にエンドポイントを設定すれば、異なる結論を導くことができることが知られており、こういう混乱が起きないように、臨床試験開始時に、「これでこの臨床試験の評価を行います」という「第1エンドポイント」と、いくつかの「第2エンドポイント」があらかじめ決めておく約束になっています。この臨床試験で「効果あり」とされたのは、第1エンドポイントである「再増大までの期間」と第2エンドポイントである「生存期間」について、ハーセプチン併用群の方が明らかにすぐれていることが示されたからです。42ヵ月後の生存率だけをとってこの結論を覆すことはできません。「延命効果は、あって5ヶ月程度でしかない」と言って、ハーセプチン治療はだめだと近藤氏は主張しますが、この「5ヶ月」をどう捉えるかは、患者さんの考えることであり、ハーセプチン治療の副作用が小さいことを考慮すれば、穏やかな治療で5ヶ月の延命、というのは、多くの患者さんにとって恩恵といえるのではないかと私は考えています。
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